「究極の特攻機」の設計者 初代新幹線に込めた願いとは

「究極の特攻機」の設計者
初代新幹線に込めた願いとは(2019/5/29 大分局 大室奈津美記者)

戦後日本の経済成長を支え、今も旅行や出張などに欠かせない新幹線。
その技術のルーツが「人間爆弾」と呼ばれた戦時中の特攻機にあることをご存じでしょうか。

愚かな兵器の開発に加担したことを悔い、戦後鉄道の開発に尽力しながら平和を追求した、1人の技術者の心の軌跡をたどりました。

流線型のルーツは特攻機に

昭和39年に誕生した初代新幹線「0系」は、最高速度200キロを超える世界初の高速鉄道として戦後日本の高度経済成長を支え、私たちの生活を大きく変えました。

0系と言えば丸みを帯びた流線形が特徴ですが、この車体にはある兵器の設計技術が生かされていました。

その兵器は特攻専用機「桜花」。太平洋戦争末期に沖縄戦などに投入され、55人の若者がこの機体で出撃し、命を落としました。

桜花の模型です

かつて海軍航空隊の基地があった大分県宇佐市の平和資料館には、実物大の模型が展示されています。

0系と桜花

0系新幹線と桜花。並べて見ると流線形のボディがどことなく似ています。実は同じ技術者が設計したものでした。

「究極の特攻兵器だ」

三木忠直さん

設計した三木忠直さんは飛行機を作ることが夢で昭和8年に海軍省に入り、その後飛行機部設計課に配属されました。

当時、設計課には日本で最先端のモノ作りの技術者が集められていました。その中でも三木さんは、30代の若さで世界一の飛行性能を目指した爆撃機「銀河」など、最新鋭の戦闘機の設計を任されるようになります。

特攻機 桜花(豊の国宇佐市塾)

戦局が悪化していた昭和19年、34歳だった三木さんが上官に命じられて設計したのが「桜花」でした。

母機の腹部についているのが特攻機「桜花」

爆薬を積んだグライダーで体当たりするという発想の兵器でした。別の飛行機につるされて飛び、敵の艦船めがけて発射されることから「人間爆弾」とも呼ばれました。

機体は軽量化を図るために徹底して無駄が省かれて1人分の操縦席と翼だけ。高速で滑空して体当たりできるよう、空気抵抗が極限まで小さくなる形に設計されました。

しかし搭載した火薬のロケットで推進力を得て滑空できたのはわずか15分ほどとみられ、着陸用の車輪もないため、ひとたび発射されればパイロットは決して生きて帰ることはできませんでした。

宇佐市社会教育課 安田晃子さん

平和資料館を担当する宇佐市社会教育課の安田晃子さんは桜花のことを「究極の特攻兵器だ」と説明します。

安田晃子さん:
「戦争というのはそもそもが非人間的なものですが、桜花を見ると、人間というのはここまで考えるのかと、改めてその恐ろしさを感じます。勝つためには人の命を犠牲にする戦争の残酷さが、極限まで現れた兵器だと思います」

「技術への冒とくだ」

桜花の設計図

三木さんにとって桜花の設計は、決して望んだことではありませんでした。

上官から設計の構想を聞かされた当初は、「パイロットが必ず死ぬ飛行機を作るなんて、技術への冒とくだ」と強く反対したと言います。

「正式戦法ではなく、奇襲作戦にすぎない。試作機でいいから作れ」などと上官に指示され、従わざるを得ませんでした。上意下達の軍で拒否することは許されませんでした。

三木さんの手記

憧れの飛行機作りのために必死で学んできた技術を「究極の特攻兵器」の設計にあてざるをえなかった無念の思い。それは終戦直後の三木さんの手記に赤裸々に記されていました。

手記より:
「記憶ヲタドルダニ胸ハ痛ム」
「本機を使用スル事ハ愚ノ愚デアル」
「余リニモ命ヲ軽ンジ過ギタ非科学的計画」

特攻機の技術が国家プロジェクトに

戦後、三木さんは「今度こそ平和のために技術を使いたい」と国鉄に入り、鉄道車両の設計に携わります。

国鉄時代の三木さん(公益財団法人鉄道総合技術研究所)

「飛行機や自動車は戦闘機や戦車の開発につながるおそれがある。鉄道が最も平和に近い乗り物だ」との考えからでした。

新幹線0系の開通式

そして国家プロジェクトである初代新幹線「0系」の開発に関わることになります。

三木さんは徹底した軽量化と空気抵抗が少ない形を追求し、世界一の高速鉄道の誕生に大きく貢献しました。
それはまさに、桜花の設計で培った技術でした。

三木さんは新幹線のほかにも、「ロマンスカー」と呼ばれた小田急3000形SEや、モノレールなど数々の鉄道車両の設計を手がけ、平成17年に95歳で亡くなりました。

棚沢直子さん

三木さんの次女の棚沢直子さんは、
「民間で再出発した父は私たちの生活に欠かせない鉄道を次々と世に送り出しながらも、戦争に加担したという自責の念を亡くなる最期まで抱き続けていたのではないか」
と考えています。

三木さんの死後に自宅から見つかった膨大な資料の中には、桜花の設計図や手記など海軍時代のものが数多く残されていました。終戦直後、軍関係の多くの資料が機密保持のために燃やされた中で、三木さんが持ち出して保管していたとみられています。

棚沢直子さん:
「海軍で桜花の設計をしていなければ新幹線もできていませんでした。その意味では、父の技術者としての出発点が海軍にあることは間違いないと思います。
けれども父はどんなにすぐれた鉄道を開発しても、“海軍で自分は人を殺した”という思いからは死ぬまで逃れられなかったのではないでしょうか。戦争なんかもう嫌だ、絶対にしてはいけないと、何度も何度も口にしていましたから」

設計者の思いを次代へ

棚沢さんは父親の平和への思いを次の世代に伝えようと、ことし5月、三木さんが残した桜花の設計図や手記などを宇佐市の図書館で初めて公開しました。

棚沢さん自身も宇佐市を訪れ、戦中・戦後の2つの時代を技術者として生きた三木さんの、平和への思いについて語りました。

棚沢直子さん:
「戦後、父をおそったむなしさと苦しさは、それは大変大きなものだったと思います。しかし父は自責の念から口を閉ざすことはしませんでした。機会があれば、平和貢献への執念を語ろうとし、新幹線の実現でその執念を実行してみせたのだと思います。戦争を2度としない、加担者にならない。父のその決意、その執念は、次の世代へと伝達していくべき大きな遺産です」

人の命を命と思わない無謀な兵器の開発に加担した後悔を胸に、戦後の復興を支えた1人の技術者がいました。
時代に翻弄されたその生涯は、すぐれた技術を人々の幸せに生かせる平和な時代のありがたさを、私たちに伝えてくれています。