陸軍初の特攻隊 戦跡が伝える少年兵たち

陸軍初の特攻隊
戦跡が伝える少年兵たち(2018年8月29日 水戸局 藤田久美子記者)

かつて茨城県鉾田市にあった旧日本陸軍の軍事施設、鉾田陸軍飛行学校。太平洋戦争末期には、陸軍で初めての特攻隊が編成され、多くの若者たちが命を落としました。

当時の建造物がほとんど残っていない中で、施設の一部とみられるコンクリート製の戦跡の保存を求める声が、地元であがっています。

田園風景に佇む戦跡

鉾田市の道路脇にある、円筒形の建物。軍事施設の一部のようですが、何のためにここにあったのか。取材を進めると、のどかな田園風景の中に戦争の爪痕が浮かび上がってきました。

この戦跡の保存を求めて活動している、鉾田市に住む星加邦雄さん(82)です。15年ほど前、ラジオで初めて、この場所に陸軍の飛行学校があったことを知ったといいます。

星加邦雄さん:
「鉾田にも飛行学校があって、聞けば特攻兵もずいぶん出たという話も聞きまして、こんなにのどかな鉾田の町のどこに飛行場があって、どういう人が命を散らしていったんだろう、町の人は何を思っていたんだろう、次々と疑問が出てきましたね」

戦跡は射撃訓練の監視場所だった

星加さんはこのときから飛行学校の関係者への聞き取りを続け、戦跡について知る人と出会ったといいます。

菅谷松之助さんは、13歳で一期生として飛行学校に入り、爆撃機の整備などを手伝っていました。星加さんは、生前に戦跡について語る菅谷さんの、貴重な音声を収録していました。

菅谷さん)「あれは射撃のために作ったの。爆撃じゃなく射撃」

星加さん)「射撃っていうのは上から飛行機で来て?」

菅谷さん)「そうそう」

菅谷さんによると、あの戦跡は戦闘機の射撃訓練の監視場所でした。射撃訓練が終わると出て行き、的に何発命中したかを確認するのも、菅谷さんの仕事でした。

星加さん)菅谷さんとか何人かで待機して?一応終わったらば、今度あれを見るわけですか。緑色が何発とか赤が何発とか。

菅谷さん)そうそう、色がついてるからね。

飛行学校が特攻隊の拠点に

鉾田陸軍飛行学校は、昭和15年に開校しました。主に操縦士の養成や、爆撃機の訓練などが行われていました。

現在の鉾田市上空です。かつて飛行場があった場所は、今、畑や住宅地になっているのが確認できます。

終戦後すぐに、米軍が撮影した鉾田飛行場の航空写真です。飛行場の南西、赤丸で囲ったのが戦跡があった場所とみられます。さらにすぐ近くには、爆撃の演習場の跡のようなものも確認できます。戦闘機が急降下して、爆弾を落とす訓練などが連日行われていたということです。

昭和19年、さらに戦況が悪化すると、飛行学校は本土防衛のため「鉾田教導飛行師団」となり、直ちに出撃できる体制をとるようになりました。

陸軍で初めての特攻隊「万朶隊」(ばんだたい)が編成され、鉾田を飛び立ちました。その後、終戦まで次々に特攻隊が編成され、出撃した兵士の多くがフィリピンや沖縄などの洋上で戦死しました。

戦地に置き去りにされた少年たち

特攻隊「万朶隊」についてはっきりと覚えている人物がいました。戦闘機の整備をしていた鬼沢留次郎さんです。

鬼沢留次郎さん:
「これが分隊長で、これが機付長(整備責任者)、これみんな軍人じゃないですよ」

昭和18年ごろ、鉾田陸軍飛行学校で撮影された整備員たちの写真です。特攻機を出撃させるために、ここに写っている鬼沢さんの仲間の整備士たちも戦地に送られたといいます。#15

少年整備士たちは、戦場に出発する特攻隊を見送った後、フィリピンなどの戦地に置き去りにされ、命を落としたといいます。

鬼沢留次郎さん:
「まだ16歳、17歳の人が、フィリピンとか第一線に送られてね、置き去りにされてかわいそうだよね。今もってこの人らのこと忘れることができないの。戦争は二度とだめだね、(戦跡は)ぜひとも壊れなければ保存してもらいたいね」

陸軍で初めての特攻隊が編成された軍事施設があったことは、地元でも忘れられつつあります。終戦から73年、戦争を知らない私たちがどう向き合うべきなのか、残された戦跡が語りかけています。