高野山にあった1年だけの海軍航空隊

高野山にあった1年だけの海軍航空隊(2018年8月30日 和歌山局 福田諒記者)

世界遺産「高野山」は言わずと知れた長い歴史を持つ信仰の山で、世界中から年間140万人の観光客が訪れます。その高野山に太平洋戦争末期の1年間だけ、軍隊の拠点がありました。

終戦の1年前 飛行場もない航空隊ができた

高野山の奥の院にある入り口から歩いて10分ほどのところに、「高野山海軍航空隊」の供養塔が建っています。戦地で命を落とした航空隊の卒業生、60人の名前が刻まれています。

太平洋戦争末期の昭和19年、高野山は軍隊に徴用され、海軍航空隊の予科練が置かれました。現在の金剛峯寺の駐車場は練兵場となり、高野山海軍航空隊は終戦までの1年間に、1万人の練習生たちが日夜、厳しい訓練に励んでいました。

戦況厳しく、物資不足から「航空隊」とは名ばかりで、飛行場はなく、練習生たちが飛行機に乗ることもありませんでした。

柱にセミのように長時間ぶらさがって…

高野山の一角にある寺、三宝院です。航空隊に所属する練習生たちは、高野山に点在する40を超える宿坊にわかれて、寝泊まりをしていました。

土生川正道さん(86)は当時、三宝院で修行をしていて、宿坊での練習生たちの様子を鮮明に覚えています。

練習生たちは、上官の命令で宿坊の柱にセミのように長時間、ぶら下がるように命じられ、途中で落ちると上官から尻をたたかれ、またぶら下がるよう命令されていたといいます。

また、この寺には戦時中に使っていた「かまど」が今も残っています。夜になると、おなかをすかせた練習生たちが毎晩、鍋の底にこびりついた「焦げ飯」を取りに来ていたといいます。

「飛行機乗り」に憧れて 14歳で入隊

茨城県水戸市に住む大谷岩男さん(87)は、高野山海軍航空隊の12期生でした。志願しないとみんなから「遅れをとる」と感じ、憧れの「飛行機乗り」になるため、親の反対を押し切って14歳で入隊しました。

訓練はとても厳しく、朝から晩まで、分刻みで予定が細かく決められていたといいます。常に「5分前行動」が基本だったため、大谷さんは今でも約束の時間に遅れたことがないということです。

高野山での2か月の訓練では、飛行機に乗ることは一度もなく、大谷さんはその後、茨城県にある筑波海軍航空隊に移り、そこで終戦を迎えました。

高野山で訓練を受けた仲間の中には、その後、特攻隊として戦地に赴き、命を落とした仲間も数多くいました。大谷さんはもし戦争が続いていたら、「特攻隊員になって命を落とし、親不孝をしていたかもしれない」と話しています。

大谷さんは、戦争を知らない世代に語り継ぐ活動を5年前から行っています。自分が経験した苦しい戦争体験を、子どもたちには経験してほしくないと考えているからです。

大谷さんは現在、87歳。戦争を経験した最後の世代として、元気なうちは語り部を続けていきたいということです。

地元の人も知らない「航空隊」

記者はことし5月に新人として和歌山放送局に赴任しました。高野山には学生時代に一度、訪れたことがありましたが、高野山はとても荘厳で、何度訪れても心があらわれる気持ちになります。今回、高野山を取材するなかで、130年以上の歴史を誇る高野山大学や、古くからの歴史を知る僧との出会いなどがあり、高野山は奥が深く取材はとても面白いものでした。

しかし、この場所に軍隊が置かれていたことは予想しなかったことで、どこか「違和感」を感じながら、山の上に軍事拠点を置かなければならなかった、終戦間際の日本の厳しい戦況を目の当たりにしたような気がしました。

戦後73年がたち、取材では高野山に残る戦跡は少なくなり、練習生を探すのにも苦労しました。また、地元の人でも航空隊について、「知らない」という声も多く聞きました。しかし航空隊を卒業した人の中には、特攻隊として戦地で命を落とした若者も多く、高野山の供養塔には60人の戦没者の名前が刻まれています。

1年という短期間でしたが、「お国のために」と高野山で厳しい訓練を積んでいた若者たちのことを私たちは決して忘れてはなりません。取材を通して戦争を語り継いでいく一助になれれば。そう思ったことしの夏でした。