戦後ソビエト軍が占領した北方四島の一つ、色丹島。人々がソビエト軍の監視のもとでの生活を強いられるなか、兵士と日本人の子どもが親しく接し、当時では考えられないような親交をしていた意外な事実がありました。
小樽市の遠藤一郎さん(82)は、70年以上も前の1人の軍人との出会いを、鮮明に覚えています。
遠藤さんが絵に描いたのは、昭和20年9月に家にやってきたという、青い軍服を着たソビエト軍の将校です。
男は流ちょうな日本語で、当時10歳だった遠藤さんに話しかけました。
遠藤一郎さん:
「めんこい(かわいい)子どもだね、といいながら私の頭をなでてくれたんです。かっぷくのよい兵隊で、子ども心にすごいなと思いました。大きく見えた。あんな大きな人間を見たことないですからね」
男は「憲兵のニコライ大佐」と名乗ったそうです。
ニコライ大佐は、無線局のそばにあった遠藤さんが暮らす家を、たびたび訪れるようになっていました。
ある日、一家に真っ白なパンが入った紙の包みが手渡されました。
遠藤さんは「初めて白いパンを見ましてね、あまりにもおいしかった」と懐かしそうに話しました。
子どもたちがパンを食べる代わりに、ニコライ大佐は日本の夕食を食べるようになりました。
食卓では、ソビエト軍の兵士と集落の人との間でトラブルが起きていないかどうかや、日本の文化や習慣について、細かく聞かれたといいます。
遠藤さんは「“日本人は一日どのくらいご飯を食べるんだ、茶碗に何杯食べるんだ”と全部聞いてくるんです。おそらく日本を統治するための資料作りをやっていたんじゃないかな」と話し、ニコライ大佐が情報収集をしていたとみています。
食後には、遠藤さんたち兄弟に、勉強を教えてくれたこともあったといいます。
ある日、遠藤さんの学校の教科書を見たニコライ大佐が語りかけました。
「日本は戦争に負けて悲惨な状態だけど、若者がしっかりとした勉強しないと、日本はだめになる。俺が教えてやる」
ニコライ大佐が教える中で特に記憶に残っているのは、算数の勉強でした。まだ学校で習っていなかった分数を、実演しながら教えてくれました。
吉田さんは「1枚の紙をナイフで半分に切ると“これが2分の1だ。さらに半分に切ると4分の1だ”と実演してくれた。勉強は割り算やかけ算、だんだん高度になっていった。学校で教えてくれる内容より厚みがあるから面白かった」と話しました。
遠藤さんとニコライ大佐との関わりは、一家が色丹島を追われるまでの2年近く続いたといいます。
故郷を奪ったソビエト軍の兵士と過ごした時間をどう解釈すればよいのか。今も答えを見いだせずにいます。
遠藤さんは「なぜ遠藤家と兄弟に対して、ソビエト軍の憲兵隊が優しい態度をとったのか、当時では考えられないようなつきあいをしていたわけです。なぜかというのは、今でも不思議です」と複雑な表情を浮かべていました。
※NHK札幌放送局では2018年、太平洋戦争中に樺太、今のロシア、サハリンや千島列島、北方領土での体験を絵に描いてもらう「樺太・千島戦争体験の絵」を募集しました。このサイトに掲載された絵は、その際に寄せられたものです。