山形県は「さくらんぼ」以外にワインの産地としても知られ、生産量は全国4位です。
県内のワイナリーのサイトを検索していて、気になる情報がありました。
「戦時中、国が全国のぶどうの産地にワインの工場を建設させたのが創業のきっかけだった」というのです。
私もふだん楽しんでいるワインと戦争との奇妙な接点とは?
まずはサイトに情報を載せていたワイナリーに電話をしましたが、「昔のことだから…」と話を聞けず、県内のほかのワイナリーに当たっても、戦時中の話を聞ける方は見つかりませんでした。
「これは無理かもしれない」と思っていたところ山形県南陽市のワイナリーの社長から、「戦時中のワインづくりについて、亡くなった母親から聞いたことがある」と聞いて、足を運びました。
年間10万本のワインを生産している「佐藤ぶどう酒」は昭和15年の創業で、佐藤アサ子さん(70)は4代目の社長です。
佐藤社長の母親は生前、「国から『シュセキをつくって欲しい』と言われた」と話していたそうです。
シュセキとは「酒石」、ワインをつくる過程でできる沈殿物のことだそうです。なぜ国が戦時中、酒石を作るようワイナリーに依頼したのか。佐藤社長にも詳しいことは分かりませんでした。
インターネットを探すと山梨県に戦時中、全国から酒石を集めていたワイナリーがあったという情報があり、現地に向かいました。
甲府市にある「サドヤ」の創業は大正6年。事務所で迎えてくれた顧問の今井裕久さんは、箱に大切にしまっていたものを見せてくれました。
若干、白みがかった水晶のような物質で、「ロッシェル塩」と呼ぶそうです。
このロッシェル塩の原料こそ、ワインの製造過程でできる、あの酒石でした。
このワイナリーにはかつて海軍の研究分室があり、ここで全国から集めた酒石を精製して、ロッシェル塩をつくっていたそうです。
今井さんによると旧日本軍は昭和19年、全国でワインの増産に乗り出しました。目的はワインではなく、製造過程でできる酒石からロッシェル塩をつくるためだったと言います。
確かに当時の国内ワインの出荷量(課税石数)は、昭和19年度の約1300万リットルから、20年度には3420万リットルに急増していました。旧日本軍がそこまでロッシェル塩を必要としたのはなぜか。
実はロッシェル塩は「軍需物資」でした。敵の戦艦のスクリュー音などを探知する「集音器」の開発に欠かせない材料だったのです。
戦前、日本は酒石をフランスから輸入していましたが、開戦後は国内で生産せざるを得なくなりました。そこで全国で次々にワイナリーがつくられていったのです。
しかし旧日本軍の目当てはワインそのものではなく、あくまでワインの製造過程でできる酒石だったため、とにかく大量に作ることが最優先。味は二の次だったと言います。
(今井さん)
「当時は人工的に大量の酒石をつくろうと、いろいろ考えたとも聞いています。結果として味の薄いワインが出来上がったこともあったようです」
軍部の勧めで出荷量を拡大した全国のワイナリーは、しかし敗戦によってとたんに苦境に立たされました。
山形県ワイン酒造組合の前理事長の浜田淳さんによると、山形県南陽市では戦争当時、60軒ものワイナリーがあったといいます。しかし味をないがしろにして大量のワインをつくらされた結果、多くが廃業に追い込まれたそうです。
(浜田さん)
「すごくまずくてね、おいしくなかったという話はよく聞いておりました。非常に悪いイメージしかなくてそれを解消するには大変でしたね」
一部のワイナリーは、どうにかして品質を上げようと専用のぶどうを開発したり、新しい醸造方法を試したり苦労を重ねたそうです。それでも南陽市のワイナリーで残ったのはわずか4軒。その1軒が、最初に話を伺った「佐藤ぶどう酒」でした。
戦後74年間、ブランドを守り抜いただけでなく、世界に通用するワインも生み出しました。ことし6月に開かれたG20大阪サミットでも、このワイナリーがつくった2種類のワインがふるまわれたそうです。
戦争のためにワインづくりを命じられた歴史について社長はどう思うのか。
(佐藤社長)
「当時は、時代の流れで、やっぱり逆らうことが出来なくて仕方なかったのかなと…。でもその分、今みなさんに飲んでいただけるおいしいワインをつくれることに喜びがあります」
専門家によると当時は200グラムのロッシェル塩をつくるのに、ボトル50本以上のワインが必要だったそうです。戦時中、ただでさえ食料が不足していたのに、貴重なぶどうが軍需物資をつくるために消費されていたと聞いて、やりきれない気持ちになりました。
また今回の取材では「時間の壁」にも直面しました。さまざまな場所を取材しましたが、当時を知る人の多くが亡くなっていて、戦時中どのような経緯でワインがつくられていたのか、直接知る人に出会うことはできませんでした。
戦後74年がたち、戦争を体験した人たちから話を聞くには今がぎりぎりの時期、もしかしたら、遅すぎるのかもしれません。
戦争のさまざまな歴史が埋もれてしまうことが決してないよう、取材を続けていかなければと改めて強く感じています。