あのとき私は特攻を「熱望」した

僕は特攻を二度「熱望」した(2019年8月23日 宮崎局 牧野慎太朗記者)

「生きながら死の宣告を告げられた」
「若者の犠牲の上に立つ外道の作戦の罪を問いたい」

人の死を前提にした「特攻作戦」について、元特攻隊員が書いた手記の一節です。
93歳の元隊員が後世に残そうとする「真実」とは。

150ページの手書きに込めた思い

手記「沖縄特攻作戦の真実」を書いた、宮崎県都城市の東郷勝次さん(93)

2度にわたって出撃を目前まで控えながら、生き残った元特攻隊員です。悲惨な戦争の記録を残したいと、戦時中の記憶を書きとめたメモに加えて特攻の資料を読み込み、去年の夏に完成させました。

手記「沖縄特攻作戦の真実」

150ページにわたる手記はすべて手書きで何度も書き直した跡が随所に見られ、70年以上前の記憶や心情を正確に記そうとした熱意が伝わってきます。

憧れのパイロットに迫られた死の選択

手記は東郷さんが大空を自由に舞うことに憧れ、パイロットを志すところから始まります。

昭和17年、16歳の東郷さんは陸軍航空学校に入校しました。倍率40倍とも言われる難関だったそうで、パイロットの適正を見極める試験は厳しいものでした。

(手記より):
「高圧試験で『G(重力)』をかけられ失神し、水をかけられ気がつく者も大勢いた。私は希望どおり操縦分科にきまり、大空への夢がまた一歩前進することになった」

その後、山梨や中国の基地で2年かけて操縦技能を習得し、東郷さんは念願のパイロットに。しかしまもなく、東郷さんの部隊全員が1つの部屋に集められました。

(東郷さん):
「上官から国民が苦しんでいるという状況を説明され、封筒を渡されたんです。『特攻隊の編制をするよう命令が来たから、よく考えて1時間後に提出せよ』と指示されました」

封筒に入っていたのは特攻の志願書で、そこには「熱望する」「希望する」「希望しない」という選択肢が書かれていました。

「生か死か」の選択を、1時間でしろというのです。

(東郷さん):
「みんなそわそわしてるけど、『熱望した』と書いた顔をしていた。これで書かなかったら顔向けできないので、『熱望』に丸をした。みんな勇ましいことを言うけど、死が怖くて、内心は私も特攻隊に選ばれたくはなかった」

諸君は“ト号”要員だ

昭和20年3月、ついに米軍が沖縄に上陸。19歳になった東郷さんに三重県の基地への異動命令が下り、そこでは沖縄周辺の米軍艦船に向けた特攻隊が、次々に編制されていました。

異動した日の出来事も、手記に書いていました。

(手記より):
「『諸君はト号(特攻)要員だから指示があるまで待機せよ』と淡々と告げられた。その瞬間、覚悟はしていたが全身に得体のしれない電流が走り、体全体が硬直したのを今でも忘れない」

初めて、死が現実として突きつけられた瞬間でした。「遺書を書け」とも言われ、いつ死の宣告を受けてもおかしくない日々を過ごすことになりました。

現実を忘れようと宿舎を飛び出して基地近くの歓楽街をさまよい、遊んでいる時間だけはすべてを忘れることができたといいます。

死にたくない、でも、命令が出れば死なければならない。手記からは死が目の前に迫ってきた若者の苦悩や孤独が感じとれます。

(手記より):
「あすは我が身か。特攻に教科書もなければ苦悩を救ってくれる者もいない。行きつくところ死の対決を自分で判断し決断しなければならない」

しかしここで予想外のことが起きました。一時的に任務を解かれ、特攻隊の出撃を護衛する部隊に配置換えになったのです。

戦友たちと重苦しい別れ

東郷さんが新たに所属することになった部隊は、当時、東南アジアの戦場で多くの隊員を失い、部隊の再建に追われていました。この部隊が使っていた戦闘機が「飛燕」でした。

戦闘機「飛燕」と東郷さん

配置換えの理由は自分に操縦経験があったからではないかと、東郷さんは考えています。一方で、ともに訓練を積んだ同期たちが特攻で出撃することになりました。

鹿児島県の知覧から出撃した「血風隊」です。

隊の12人のうち9人が東郷さんの同期でした。出撃直前、東郷さんは最後に一目会おうと宿舎を訪ねました。

(東郷さん):
「重苦しい雰囲気で何も話せませんでした。『俺もあとからついていくからな』と繰り返して最後の別れをしました」


再び「死の志願書」が

しかし2度目の出撃命令が目前まで迫っていました。戦局がますます悪化していた昭和20年6月、東郷さんは再び異動を命じられます。行き先は鹿児島県の「万世飛行場」でした。
特攻のために作られたものの4か月間しか使われず、「幻の飛行場」と呼ばれています。

特攻隊の護衛任務についていた東郷さんに、ある日上官から集合の号令がかかりました。そこで配られたのは、あの志願書でした。

「死にたくはない」

しかし仲間を特攻で失った東郷さんには、自分だけ生き残る選択はできなかったといいます。

(手記より):
「特攻最前線の基地である。指名されたら、死の旅立ちは早い。全員緊迫した状況の中、死の恐怖と闘いながら複雑な心境で熱望志願したことを今も忘れない」

生と死のはざま 苦悩した74年

しかし出撃命令が下される前に、戦争は終わりました。東郷さんは終戦後も「空の仕事」に携わろうと航空自衛隊に入隊、結婚して2人の子どもを授かりました。

戦時中にはもう経験することはないと思っていた“普通の暮らし”。
しかし生と死のはざまを繰り返し体験した東郷さんの苦悩は、終わったわけではありませんでした。

「生きてよかった」と「すまない」という両方の複雑な気持ちを抱えながら、74年間を生きてきたのです。

死んだ仲間は何を思って特攻に臨んだのか。東郷さんは散っていった隊員たちの声なき声に向き合い続けてきました。そして、数多くの若者が命をかけて出撃した「真」の思いをみずから考えぬき、手記にまとめました。

(手記より)
「誰のため、何のために殉するのか。天皇中心の皇国のため殉じ大義に生きるという感情よりも、同胞を親や家族を護るため一命を賭すというのが多くの若者達のたどり着いたものではなかったのではなかろうか」

取材の最後、東郷さんは手記への思いを語りました。

(東郷さん)
「93歳を迎えた私は、20歳前後で死んでいった隊員たちの4倍以上も長く生きています。『東郷、なんのために長く生きてるんだ』と言われているような気がして、生き残った者の使命として手記を書きました。死んでいった隊員たちも『悲惨な特攻作戦の記録を残してくれてありがとう』と言ってくれるのではないかと思っています」

東郷さんと戦友たち