「僕は遺書を書かない」少年兵の決意(2019年8月16日 首都圏放送センター 古本湖美記者)

戦時中に14、15歳の若さで「海軍特別年少兵」になった少年たちがいました。戦局が悪化するなか「お国のために」と最前線に送り出され、多くの若い命が失われたのです。

ことし2月、「元少年兵」の一人が初めて出版した手記を読み、今の中高生にあたる少年たちが体験した戦場の生々しい描写に、私(記者)は圧倒されました。

92歳の元少年兵は、どんな思いで手記を書いたのか。

足の痛みが今も戦争を
忘れさせない

「『雪風』に乗った少年」という手記を書いたのは、東京都西東京市に住む西崎信夫さん(92)です。

7月に初めてお会いしたとき、西崎さんは左足を少し引きずっていて、今も太ももに3発の銃弾が残っているということでした。

西崎信夫さん:
「今みたいな梅雨の時期はうずくんですよ。そのたびに戦争を思い出し、忘れさせてくれないんです」

本のタイトルの「雪風」とは、太平洋戦争末期に敵の攻撃を受けて沈没した戦艦「大和」の、護衛にあたった駆逐艦の名前です。

必ず生きて帰ってこい

「海軍特別年少兵」は、海軍が未来の幹部兵を養成するために始めた制度です。

全国から優秀な少年たちが集められ、三重県で生まれ育った西崎さんは母親のサワさんの猛反対を押し切って、昭和16年に合格しました。

11歳のときに父親が亡くなり、苦労していた母を少しでも楽にさせたいという思いからでした。

15歳で広島県の大竹海兵団に入団し、自宅を出発する日の朝、サワさんにかけられたことばは、
「死んだら何もならない。必ず生きて帰ってこい」
でした。

見送りの人たちでいっぱいの駅で「バンザイ!」の声が響くなか、汽車が動き出したとき、線路脇の電柱の陰にサワさんが一人で立っているのに気付きました。

日の丸の小さな旗を持って何かを訴えるようなサワさんを見て、「お母さんのために絶対に生きて帰ってくる」と固く誓ったそうです。

体罰なんて当たり前

海兵団では厳しい訓練が続き、理不尽な体罰も当たり前のように行われていました。

ある日、団長から「戦場における軍人の精神の神髄はなにか」と質問されたとき、とっさにサワさんのことばを思いだして「生きて帰ることであります」と答えて、すぐに後悔したそうです。

案の定、「なぜ天皇陛下のために死ぬことだと答えなかったのか」とひどく叱られ、唯一の楽しみだった夕食抜きの罰を受けました。

西崎さん:
「今から思えば、まだ幼さの残る子どもたちを国のために喜んで死ねるような軍人に教育しようと徹底的に厳しく訓練されたんだなと思います」

僕は絶対に遺書は
書かない

戦局の悪化に伴い、西崎さんのような少年兵たちも次々に最前線に送り込まれました。

昭和20年3月、沖縄に上陸したアメリカ軍の進撃を阻止しようと、翌月、西崎さんが乗る駆逐艦「雪風」に「水上特攻」が命じられました。

食料や燃料は片道分しか積まず、「弾丸を撃ち尽くしたあとは玉砕する」と告げられたのです。

4月6日、戦艦「大和」を中心とした10隻の艦隊が沖縄に向かいました。

西崎さん:
「出撃する直前、父の形見の腕時計の音がやけに大きく聞こえるんです。カチカチという音がね、自分の命を削っていくように聞こえてなりませんでした。周りの仲間は遺書を書いていましたが、私はお母さんの『生きて帰ってこい』ということばを思い出して、絶対に書きませんでした」

恐怖が殺意に、そして
快感に

翌日、鹿児島県沖でアメリカ軍の約200機の大編隊が襲ってきました。

頭上で鳴り響く、キーンという金属音と弾丸の破裂音。

すぐ前にいた上官が「ウッ」とうなって倒れた次の瞬間、左足の太ももに、焼け火箸3本がブスッと刺さったような痛みに襲われました。敵の銃弾が命中したのです。

痛みにあえぎながら看護兵に「銃弾の破片を抜いてくれ」と頼みましたが、返ってきた答えは「重傷者がたくさんいるから、自分で抜け!」でした。

覚悟を決めて戦闘帽を強くかんで息を止め、ピンセットで銃弾をつかみ、渾身の力で引き抜きました。あまりの激痛に全身の力が抜け、残りの銃弾を引き抜く気力はもうなくなっていたそうです。

倒れた上官は船が揺れるたびにドクドクと血があふれ、亡くなりました。

太ももを包帯で縛って何とか戻ると、機銃台の射手として敵機を撃墜するよう命じられました。魚雷が専門の西崎さんは実弾を撃った経験はありません。

「このままでは殺される」

恐怖で足が震えるなか、自分自身を奮い立たせ銃を撃った、そのとき。

手記より:
突然、私は開き直ったのだ/
恐怖が殺意にかわり、弾を撃つことに快感さえ覚えるようになった/
私は人間でなくなっていた。

西崎さんは、あのとき戦争によって気づかされた自分の内に潜む残酷さについて、今も世の中の痛ましい事件を見る度に思い出し、胸が締めつけられると言います

西崎さん:
「恐怖が殺意にかわった瞬間の感覚がずっと体の中に残っている感じがするんです。74年たっても抜けた気がしません」

助けを求める声 消せない記憶

いまも脳裏から離れないのは、沈没した「大和」の乗組員の救助にあたっていたときのことです。
火薬と重油の臭いが立ちこめるなか、周辺の海では助けを求める乗組員たちの声が響いていました。

甲板から西崎さんがロープにつかまった若い兵士を引き上げようとしたとき、その兵士の足に太った下士官がつかまっていました。

「二人一度に上げろ!」と言われても重くて上げられません。
「はなせ!」と言っても下士官は手を離しません。

西崎さんはその腕を何度も棒でたたいて振り落とし、若い兵士だけを助けました。

流されていった下士官がその後どうなったのかはわからないということです。

西崎さん:「あの下士官にも生きて帰ってくることを待ち望んでいた家族がいたに違いありません。本当に悪いことをしました。一日たりとも忘れたことはありません」

手記によると西崎さんと同じ「海軍特別年少兵」の一期生は約3200人いましたが、約2000人が戦死したそうです。

西崎さん:
「なぜ少年たちがこんなに亡くならなければならなかったのか。偉い大人の人たちが始めたむちゃくちゃな戦争に巻き込まれたという怒りがいまも消えません」

終戦後の昭和22年10月、西崎さんは5年ぶりにふるさとに帰りました。

「ただいま帰ってまいりました」と玄関先で声をあげると母親のサワさんはまるで幽霊を見るように「信夫か?」と尋ねました。そして目にいっぱい涙をためながら「よう生きて帰った…」といとおしそうに体をさすって迎えてくれたそうです。

戦場で一日も忘れたことがなかった「必ず生きて帰ってこい」というサワさんのひとことを、西崎さんは心の中で何度もつぶやきました。

「5年前の約束ちゃんと守ったよ」

それは今も世界で起きていること

320ページあまりに及ぶ手記を、西崎さんはこのように結んでいます。

手記より:
もし自分の子どもや孫が、私のように大義ある戦争だと信じて兵士となり、その尊い命が紙くずのように捨てられたらと、想像していただきたい。

戦争は恐ろしく、残酷であり、戦争がもたらすものは悲惨でしかない。

夢と希望に満ちあふれた多感な少年たちを二度と戦場に送ることがないように、それが、私の唯一無二の願いであり、体験を語り続けることが、戦争で戦い生き残った私の使命である。

大人たちが始めた戦争で幼い子どもたちが武器を持たされ、激しい戦闘で命を落とす現実は世界ではいまも起きています。
夢と希望に満ちあふれた多感な少年たちを二度と戦場に送ることがないように。
92歳になった元少年兵の願いです。