特攻に散った君と約束したから(2019年8月22日 鹿児島局 山本健人記者)

「神様、自分は国のために死ななければならない。でも生きたい」

国のために命をささげることを命じられた時、人は何を思うでしょうか。その若者の頭から離れなかったのは、「友との約束」を果たすことでした。ことしの夏、大学生が若者の軌跡をたどる旅に出ました。

“最高峰”の英語弁論大会
つくったのは元特攻隊員

「高円宮杯全日本中学校英語弁論大会」は、約10万人が参加する予選を勝ち抜いた全国の中学生たちが、社会への問題意識や将来の夢などの自由なテーマを、英語で主張します。

日本で最高峰とされるこの大会は都内の大学生で作る団体が運営しており、実は私(記者)も、学生時代にこの団体で活動していました。そのときの勉強会で学んだ大会設立のいきさつが、強く印象に残っています。
「太平洋戦争で生き残った特攻隊員によって作られた」というものです。

設立者は鈴木啓正さんで、「子どものころから英語を学んで英語弁論大会を作る夢を持った。太平洋戦争で特攻隊員を志願したものの奇跡的に生き残り、大会を設立した」と聞いていました。

学生時代の鈴木啓正さんです。

「なぜ国に命をささげたのだろう?」

鹿児島県に記者として赴任した私は、ことしの春に後輩にあたる大学生と知り合いました。3年生の堀田智之さんは鹿児島県出身で、都内の大学に通っています。

勉強会はもう開かれていないということですが(残念!)堀田さんは自主的に、過去の資料などから学んでいました。
彼が気になっていたのは、鈴木さんがなぜ特攻隊に身を投じたのかということでした。

堀田智之さん:
「英語弁論大会を作る夢がありながら、国のために命をささげるというのはどういうことか。どのように心の整理をつけたのか、知りたいです」

「夏休みを利用して、思いに迫る旅をするのはどうだろう」という私の誘いに、堀田さんは即座に同意してくれました。

「夫には純粋な危機感があった」

鈴木さんの妻が都内で暮らしている事が団体を通してわかり、堀田さんと私は8月上旬に訪ねました。

鈴木順子さん(84)です。

順子さんは夫の啓正さんが弁論大会を思い立った背景について、「主人は純粋な人でした。世界に開かれないと日本は孤立してしまうと、小さいころから考えていたようです」と語りました。

啓正さんの親類にはジャーナリストで歴史家の徳富蘇峰もいたということで、幼いころから要人と話す機会もあったそうです。日本を動かす人たちに語学の知識がなく、世界情勢に疎いことに危機感を抱き、中学生のころには英語弁論大会の構想を抱いたといいます。

それほど強い信念がありながら、なぜ、特攻隊に志願したのでしょうか?

鈴木順子さん:
「当時の若い人たちはもう、生きるか死ぬかというか、むしろ選択肢がないくらい日本の状況が切羽詰まっていました。お国のために闘わなければ誰が国を守るか、という時代でしたから」

陸軍士官学校に進んだあと、終戦間近の昭和20年5月。啓正さんは所属していた部隊の隊長から、「特攻」の志願書を渡されます。
こうした切迫した状況の中でも啓正さんは、英語の弁論大会を作る夢を捨てきれていなかったと、順子さんは明かしました。何度も順子さんが口にしたことばが「富永さんとの約束」でした。

特攻に散った親友との
約束

鈴木啓正さん(左)と富永靖さん(右)

富永靖さんは、中学時代の啓正さんの親友です。「英語を普及したい」という思いから、2人で将来、英語の弁論大会を作ろうと約束していました。

しかし2人は別々の特攻隊に志願し、富永さんは戦死しました。
富永さんとはどのような人物なのか、お盆前に堀田さんと私は鹿児島県にある特攻の資料館、「知覧特攻平和会館」を訪ねました。

鹿児島が地元の堀田さんにも初めての訪問でした。

戦死した多くの特攻隊員の写真の中に、富永さんを見つけました。

富永さんについて、資料館には以下の記録が残っていました。

・長崎県出身
・昭和20年5月25日に宮崎県都城東飛行場から出撃
・沖縄沖で戦死

さらに、学芸員から思いもよらなかったことを聞きました。

父親の恭次さん(左)と富永さん(右)

富永さんの父親の恭次さんは、陸軍の司令官としてフィリピンの戦線にいて、特攻も指揮したと伝えられています。

しかし昭和20年の初め、部隊を置き去りにして台湾に逃亡。以来、「ひきょう者」と批判を受けたといいます。

その数か月後、富永さんは特攻に志願して出撃していました。
学芸員は、「富永さんは、父親は汚名があるかもしれないけど、自分は違うんだと示したかったのだと思います。特攻隊員としてしっかり自分の役割を果たすんだという気持ちがあったのかなと推測しています」と話しました。

一家の名誉、そして自分の名誉を守りたいという悲壮な決意。堀田さんは、日の丸への寄せ書きを食い入るように見つめていました。敗戦が濃厚となるなか、富永さんの字で「皇國最終ノ勝利ヲ信ズ」と書かれていました。

堀田智之さん:
「当時は特攻隊員それぞれの状況があって、富永さんも彼なりの名誉挽回や汚名返上をしたいという気概があったのかなと思いました。単純に『かわいそう』という言葉で片づけてしまうことはできないんですね」。

「もし生き残ることができたら、必ず」

昭和20年春、別の部隊で訓練を受けていた鈴木さんのもとに、富永さんから一通の手紙が届きました。

富永さんの手紙より:
「出撃のときは父から贈られた日の丸で鉢巻し、母から頂いた千人針を身につけて行きます。敵艦に突入するとき、君の名を叫びながら。さようなら」

親友の出撃にあふれる涙が止まらなかったという鈴木さんが、特攻の志願書を受け取ったのは、そのわずか1週間後でした。そのときの心情を後に記しています。

鈴木啓正さんの記述:
「神様、自分は国のために死ななければならない。でも生きたい。もし、生き残ることができたら私が富永君と中学時代から計画していた英語弁論大会の事業を必ずやります」

そして終戦。奇跡的に生き残った鈴木さんは大会の設立に奔走し、終戦から4年後の昭和24年に、最初の弁論大会を実現します。その後も大会の運営に情熱を注ぎ、13年前に82歳の生涯を閉じました。

今度は自分たちの番

堀田さんはこれまで戦争について深く考えたことがなく、同年代の若者が国のために命を捨てなければいけない状況は、今も正直、想像できないままだと打ち明けました。
ただ、堀田さんはこうも続けました。

堀田智之さん:
「『若者にはいつまでも夢を持ち続けてほしい』。旅を通じて鈴木さんたちからのメッセージを受け取ったような気がします。自由に夢を持つことすら許されない状況を生み出すのが戦争であるならば、若者の夢を奪うような戦争は二度と繰り返してはいけない。今度は自分が後輩に伝えていく番だと思います」

将来を担う若者に向けた2人の特攻隊員の思いは、少しずつ形は変わっても伝わっていくのではないかと、強く感じた旅でした。