埋もれた「列車銃撃」
74年後の記念碑(2019年8月7日 津局 三野啓介記者)

8月2日、三重県亀山市に、太平洋戦争の被害について記した新たな記念碑が設置されました。終戦直前に起きた、アメリカ軍の戦闘機による列車への銃撃について記した記念碑です。設置のかげには、埋もれていた戦争の記憶を留めようと取り組んだ男性がいました。

74年を経て設置された
記念碑

三重県北部に位置する亀山市天神地区。8月2日、夏の厳しい日ざしが降り注ぐ中、地区の公民館で記念碑の除幕式が行われました。

記念碑には蒸気機関車の画像を背景に、74年前のこの日起きた、戦闘機による列車への銃撃被害が記されています。地域の住民や行政の関係者も参加して、皆で記念碑の設置を祝いました。

多くの命を奪った
「列車銃撃」

太平洋戦争末期。制空権を失った日本は、激しい本土空襲に連日さらされました。B29による爆撃が各地の都市を焼き尽くす中、人々を襲ったもうひとつの空襲が、戦闘機による“機銃掃射”でした。

ガンカメラの映像

戦闘機に取り付けられたガンカメラの映像には、工場や発電施設、船、さらには人まで、あらゆるものを対象にして行われた機銃掃射の様子が残されています。

中でも特に多くの人の命を奪ったのが、列車への銃撃です。民間人を乗せた列車が容赦なく襲われ、各地で甚大な被害を出していました。東京 八王子市では当時の国鉄・中央本線の列車が銃撃され、60人以上が死亡しました。

記念碑に記されている列車への銃撃が起きたのは、昭和20年8月2日正午過ぎでした。国鉄 紀勢線の亀山駅を出発した直後の列車が、アメリカ軍の戦闘機によって激しい銃撃を受けました。

しかし翌日の新聞では、東海地方への戦闘機の襲来を伝える一方、被害については「極めて軽微」と記すのみで、具体的な被害や状況はその後も伝えられませんでした。

「地域のことは地域で調べないと」

終戦から年月が経っても埋もれたままだった列車への銃撃。被害について知る人が少なくなる中、調査を始めた人がいました。亀山市の小学校で教師を務める岩脇彰(58)さんです。

志摩半島の特攻基地や鈴鹿市の軍需工場跡など、県内各地の戦争関連施設の調査を長年続けてきました。地元でも列車への銃撃を知る人が少なくなっていることに危機感を覚え、10年ほど前に調査に乗り出しました。

岩脇彰さん:
「沖縄や広島のように地域のことは地域の人が調べないといけない。亀山の人が調べないと誰もしてくれない」

戦闘機の銃弾の薬きょうが屋根に落ちてきた

「今頃遅い」という意見もありましたが岩脇さんはひるまず、今やれることをやるしかないと、現場近くの地域で目撃者を一人一人探して、聞き取りを進めました。

目撃証言を提供した1人が、今も現場近くに住む中根弘毅さん(88)です。あの日、列車が銃撃された現場のすぐ近くにあった自宅で、昼食を取っていた中根さんは、戦闘機2機が旋回して銃撃する様子を目の当たりにしました。

その時、銃弾の薬きょうがバラバラと自宅の屋根に落ちてきたため、家も狙われていると恐怖を感じたといいます。岩脇さんは、どこからどのように戦闘機が飛んできたのか、何機だったのか、銃撃の音は聞いたかなど、何度も確かめていました。

「もうすぐトンネルに入ったら助かる」

調査を粘り強く進めていた岩脇さんに、貴重な体験談を持つ人から連絡がありました。四日市市に住む伊沢径世(82)さんです。

74年前のあの日、当時8歳だった伊沢さんは、母親の実家に向かうために祖父と2人で列車に乗っていて、銃撃を受けました。

車内の状況について伊沢さんの語る話は、壮絶なものでした。

伊沢さん:
「前に座っていた軍人の首が急にカクンと倒れると同時に、祖父は銃弾から守るために私を座席の下に押し込みました。『もうすぐトンネルや。トンネルに入ったら助かる』と車内の人たちが叫ぶ声が、今も耳に残っています」

伊沢さんと祖父は2人とも奇跡的に無事でしたが、銃弾を浴びてはらわたが飛び出た人が倒れていたということです。ガンカメラの映像からは決して分からない、“撃たれた側”の証言が、取材をしていた私の胸も締め付けました。

首のない赤ん坊に半狂乱の母

岩脇さんは当時の様子を知る30人余りから証言を集め、銃撃の詳細を報告書にまとめました。

岩脇さんの調査によって、西から飛来した戦闘機2機はまず機関車を銃撃し、列車を走行不能にしたこと。そして客車を繰り返し銃撃したことで、40人以上が亡くなったとみられることが明らかになりました。

また証言からは、亀山駅のプラットホームに遺体がいくつも並んでいたこと。けが人が逃げ込んだ地域の家庭は、土間が血だらけになっていたこと。さらには、銃撃で首がなくなった赤ん坊をおんぶする半狂乱の母親がいたことなど、凄惨極まる様子が明らかになりました。

岩脇さんは「人生や命が一瞬でなくなってしまう状況が確かにここであったことを、伝えていかないといけない」と話していました。

記念碑をきっかけに

「満員の乗客を乗せた5、6両の客車に、多数の銃弾が撃ち込まれた。全国でも最大規模の犠牲者を出した列車銃撃事件」

記念碑には、岩脇さんが明らかにした調査の結果が記されています。列車への銃撃被害を長く地域で記憶に留めてほしいと願う岩脇さんは、「この看板ができたことで、ここが戦争を語るひとつの遺跡になった。この事件、そして戦争そのものが伝えられるきっかけになってほしい」と話していました。

多くの人の命を奪った列車への銃撃が74年目の夏、埋もれていた被害の記憶として新たに記されることになりました。

戦争の記憶を受け継いでいくための大事な一歩ですが、あの日から74年が経ち、岩脇さんに貴重な証言を寄せた人たちもすでに多くが亡くなっています。

戦争体験者が少なくなっていくことで、戦争の記憶を受け継いでいくことがますます難しくなっていることを、私は今回の取材で改めて痛感しました。今回の記念碑を含めて、戦争体験者の記憶を形に残して、私のような戦争を知らない世代が活用していくことが、ますます重要になってきていると感じています。