元死刑囚の戦犯がつづった「獄中記」

元死刑囚の戦犯がつづった
「獄中記」(2018年8月1日 福岡局 陶山美絵記者)

戦時中、捕虜の虐待などに関わったとされた、いわゆるBC級戦犯として絞首刑を言い渡された元死刑囚が、獄中で記した3000ページにわたる膨大な手記が、福岡市で見つかりました。死を覚悟してつづった手記には、戦争に翻弄されたみずからへの戒めのことばがつづられていました。

6年間の獄中日記

BC級戦犯の新たな獄中記は、ことし5月に見つかりました。収監された東京の巣鴨プリズンにちなんで「巣鴨日記」と題された手記は、昭和21年8月から27年10月までの6年間に書かれたもので、約3000ページにわたります。

判決を言い渡された日の記述には「絞首刑! これが私に與(あた)へられた判決である。深い海の底にしんしんと沈む様な思ひがした」と記されていました。

手記を書いたのは、元陸軍主計大尉の冬至堅太郎さんです。冬至さんは福岡市で捕虜のアメリカ兵の処刑に加わったとして、BC級戦犯となりました。

冬至さんの孫の竜介さんが、福岡市内の自宅にあった資料を読み返したところ、獄中でつづった日記だと気づいたのです。

冬至竜介さん:
「生きて出られなかったときに、自分がどういうことを考えて死んでいったかを遺族に伝えたかったんだと思います」

今回見つかった手記について、BC級戦犯をめぐる裁判に詳しい間部俊明弁護士は、「自分の運命が決められる過程をどのような気持ちで過ごしていたのかがわかる」としたうえで、裁判の経過が詳細に記録されており、貴重な資料だと語っています。

なぜ大尉は戦犯に

なぜ冬至さんはBC級戦犯として罪に問われたのか。

昭和20年6月19日、福岡のまちをアメリカのB29爆撃機が襲いました。いわゆる福岡大空襲です。この空襲で1000人以上が犠牲になりました。

そして冬至さんの母のウタさんも、この空襲で亡くなりました。母のなきがらと対面した直後、火葬の準備に向かう道すがら、冬至さんはB29の搭乗員の処刑の現場に遭遇します。

母の死への怒りにまかせ、その場の雰囲気のなか、軍刀で4人を手にかけました。

竜介さん:
「その場面に出くわさなければ、あるいは1日か2日たっていれば、そういう行動には出なかったんじゃないかなと思います。早まったことをしたと思っていたんじゃないかと思います」

冬至さん自身も手記のなかで「不幸は不幸を呼ぶということわざがあります。果たして母の死は第二の不幸を起こしました。こんな言い方を許してください。私は責任を十二分に感じています」とつづっています。

家族への思いと自省

冬至さんが獄中で手記をつけ始めた当初は、残された妻と2人の幼い子どもたちを思うことばが多くつづられていました。例えば次のようなことばです。

「哲ちゃんは近所の友達から『哲ちゃんの父ちゃんは?』と尋ねられるだろうね。そんなとき坊やは何と返事するの?。坊やの心の中を察して父ちゃんの眼にはいつの間にか涙が一杯にたまってしまったよ」

「君たちの前途は長い茨の道である。しかもそれを与えたのは君たちの唯ひとりの頼りである私なのだ。恨んでくれ、怒ってくれ。愚かな夫を父を罵ってくれよ。いくら頼んでも君たちは夫よ、父よ、と私を恋うか」

一方で、昭和23年12月に絞首刑を言い渡され死を覚悟したあとは、手記の内容が次第に変化していきます。

「戦争犯罪人は、自分の自覚も意志もなく、行った行為に対して死を与へられる」
「人間は運命と云ふものに従順でなければならない。静かにこれを抱いてその苦しみに身を委ねておれるのもその故である」

手記の内容は、現実を受け止めようとするものになっていきました。

帰郷後にささげた祈り

死刑囚として過ごして1年半。冬至さんをめぐる環境が一変します。朝鮮戦争が始まるなか、終身刑に減刑となったのです。そして昭和31年に出所しました。

10年に及ぶ獄中生活を経て家族の待つ福岡に戻った冬至さんは、昭和58年に68歳で亡くなりましたが、それまで、自宅に置いていたものがありました。

今は福岡市内の寺に預けられている、この4体の地蔵に祈りをささげていたといいます。

竜介さん:
「処刑した相手に対して申し訳ないという気持ちがあったんじゃないでしょうか。亡くなったアメリカ兵にも子どもがいただろうという思いや、アメリカ兵も憎くて戦争に来ているわけじゃないという思いに至ることができたのではないかと思います」

東京駅前に立つ愛の像

冬至さんは巣鴨プリズンで過ごした10年間に、あわせて26人の死刑囚を見送りました。出所後、冬至さんは東京に「愛の像」を建立します。男性が天に向かって何かを祈っているかのようなブロンズ像です。

これは冬至さんが死刑囚の遺書を集めた本を出版した収益で建てたもので、今もJR東京駅の丸の内側の駅前広場にたたずんでいます。二度と犠牲を繰り返さないでほしいという深い願いが込められています。

死刑囚としてみずからの運命と向き合い続けた冬至さんは、手記にこう書き残しています。

「日本人は自分自身で考へるといふ大切なことに欠けている。どんな人の言葉も盲信してもいけないし、頭から否定してもいけない。必ず、自分でよく味わひ、吟味しなくてはならないのだ」

70年の時を経て、手記は今の私たちに、どう生きるべきかを問いかけているようでした。