「最後の同窓会」青春と沖縄戦伝え60年余 元女学生たちは今

「最後の同窓会」青春と沖縄戦伝え60年余 元女学生たちは今 (2023/11/30 沖縄放送局 記者 西銘むつみ)

沖縄県民の4人に1人が命を落とした78年前の沖縄戦。

その影響で廃校となった那覇市の女学校では、生徒の一部が学徒として戦争に動員され、犠牲になりました。

青春の思い出を語り合い、戦場で亡くなった学友を追悼してきた同窓会は、このほど60年余りの活動に幕を下ろしました。

最後の同窓会に集った90代の元女学生たちは、世界でやまない争いに不安を募らせていました。

全員が90代の同窓会

78年前の沖縄戦で廃校になった県立第二高等女学校。

戦前、「二高女(にこうじょ)」と呼ばれていました。

沖縄県立第二高等女学校

生徒の一部が沖縄戦で「白梅学徒隊」として負傷兵の看護に動員され、22人が命を落としました。

戦後、校章の白い梅から名前をとった「白梅同窓会」を結成。

卒業生たちは交流を続け、元学徒たちはみずからの過酷な体験や犠牲になった学友のことを語り継いできました。

その同窓会が11月12日、63年間の活動に幕を下ろしました。

最後の同窓会(11月12日)

「松のみどりのいや深み 永久に栄ゆく学び舎ぞ」
(「二高女」の校歌 一部抜粋)


最後の同窓会の会場となった那覇市内のホテルには、元学徒やその先輩・後輩にあたる90代の同窓生20人と家族などが出席し、全員で「二高女」の校歌を歌いました。

その間、同窓生たちは、学園生活をおう歌していた10代を思わせるような屈託のない表情を見せていました。

失われた母校 奪われた青春

武村豊さん

元学徒 武村豊さん(94)
「あちこちに女学校がある中で、二高女というのは那覇市の真ん中にあって、非常に優雅な、道を通ると講堂からいつも音楽が流れている。早く来てピアノの練習をしたり、声楽をやったりしました」

太平洋戦争中の昭和19年(1944年)10月10日、沖縄県内各地がアメリカ軍に攻撃され1400人を超える人が死傷し、那覇の街の9割が焦土と化しました。

この「10・10空襲」によって、白壁でモダンな造りが生徒たちの誇りだった「二高女」の校舎は焼失しました。

最後の同窓会には、空襲で学園生活を奪われた女学生の思いを語り継ぐ活動をしている磯崎主佳さんも出席していました。

磯崎主佳さん

磯崎さんは県内の中学校で美術の教員として働きながら絵本作家として活動し、「二高女」の戦争体験を絵本にしています。

校舎の跡地で女学生たちから話を聞いたことがある磯崎さんは、学びの場が失われたことへの悲しみは想像以上だったと語ります。

磯崎主佳さん
「楽しい思い出ばかりなんですよ、話を聞いていると。『10・10空襲』ですべて消えてしまったというか、その喪失感はものすごく大きかったと思います。『二高女』の皆さんは、あの10月10日から戦争は始まったんだと感じています」

「10・10空襲」のあと、女学生たちは沖縄本島北部に疎開したり「白梅学徒隊」として沖縄戦に動員されたりとバラバラになっていきます。

そして、戦争は学びの場だけでなく、仲間の命をも奪っていきました。

元気なうちに記憶のバトンを

1回目の同窓会が開かれたのは昭和35年(1960年)。

そして最後の同窓会は、コロナ禍を経て4年ぶりに開催されました。

呼びかけたのは最年長で97歳の大城君子さんです。

自分たちが元気なうちに「二高女」の記憶のバトンを直接、次の世代に渡したいという気持ちがあふれているように見えました。

大城君子さん

大城君子さん(97)
「体の自由がきかなくなった方も多々いらっしゃるでしょうが、万難を排してここに出席していただいたことを本当にうれしく感激しております。私は1回目の同窓会に飛び入りで参加しました。同窓会の初回と終わりに出席できて光栄です。会は終わってもいつまでも『二高女』の絆は続きます」

白梅同窓会の会合は、この日まで63年間続き、多い時には100人を超える参加者がいたといいます。

高齢化で参加者が減る中、長年、同窓会長を務めた中山きくさんがことし1月、94歳で亡くなりました。

中山きくさん(享年94)

中山さんは「白梅学徒隊」として動員された過酷な体験を県内外で精力的に語り継いできた、語り部のシンボルのような存在でした。

亡くなる数か月前まで講演活動を行っていた中山さん。

つえをつくようになってからは「足が3本になったのよ」と、ちゃめっ気たっぷりに話していました。

同窓生の中には、車いすに乗ったり、つえをついていたりと、家族の同伴なしでは移動が難しい人もいます。

「うれしさ半分、さみしさ半分です」

参加者の1人は久々の再会が最後の同窓会になったことについて、そう語っていました。

心痛める戦争体験者

生前、語り部の中山さんは「青春時代は戦争だった」と話していました。

戦争に翻弄された同窓生たちにとって、今のイスラエル・パレスチナ情勢やロシアによるウクライナ侵攻はどのように映っているのか、尋ねました。

山田和子さん

沖縄戦を体験 山田和子さん(95)
「当初、戦争は『お国のためだ』と植え付けられていたので、艦砲射撃の爆音も怖くはありませんでした。しかし、アメリカ軍の攻撃が続く中、アメリカの艦船、戦車を見て、日本が太刀打ちできる相手ではないと感じがっくりしました。もう日本はだめだと。ロシアのウクライナの侵攻を見ると、私利私欲に見えてしまいます。戦争がないことが一番の幸せです」

稲田和子さん

熊本県に疎開 稲田和子さん(94)
「テレビで、子どもたちが親に抱かれて逃げたり泣いたりしているのを見るとつらくなります。自分の孫が同じような目に遭ったらと考えてしまいます。戦争は絶対にだめです」

奥間百合子さん

沖縄戦を体験 奥間百合子さん(94)
「世界は平和から遠ざかって、かえって悪くなっている気がします。戦争は勝っても負けても何も残りません。なぜ話し合いで解決できないのでしょうか」

同窓生の中で唯一の元学徒、武村豊さん(94)は、中山さんと二人三脚で県内外の子どもたちに地上戦の悲惨さや残酷さを語り継いできました。

武村さんは、戦争で失われたものの大きさを知っているからこそ、子どもたちの平穏な暮らしが奪われている世界情勢に強く心を痛めていました。

武村さんの左ひざに残る傷

元学徒 武村豊さん(94)
「左のひざに沖縄戦で負った傷痕があります。孫がこれを見て、さすってくれたので、『戦争の傷だよ』と伝えました。どうしても戦争はだめだ、何の得にもならないということを、この身を通して感じています。今の情勢を見るとね、もう怖いですね。子どもたちが順調に育ってくれたらいいのに」

記憶の継承を担う

同窓会は、同窓生と若い世代とをつなぐ貴重な場でもありました。

この日も、同窓生の子どもや孫、そして「二高女」の戦争体験を語り継いでいる「若梅会」のメンバーが出席しました。

「若梅会」のメンバーは、ふだんはそれぞれ仕事を持ち、多忙な日々を送りながら、学校に出向いて「白梅学徒隊」の体験を語り継いだり、慰霊塔の清掃や修繕を行ったりしています。

メンバーは、元学徒の手記や日記を整理してアーカイブス化するなど、多くの人たちの目に触れることができる方法を探ろうとしています。

記憶を継承する環境がますます厳しくなっていく中で、むしろ、戦争体験を直接聞くことができた最後の世代だという自負と決意のようなものが、高まっているように感じます。

肌身で感じた平和への思い

90代の人たちが家族に付き添われながら20人も集まった最後の同窓会。

その原動力は、苦楽を共にした仲間たちとの強い絆と、身をもって経験した戦争の無意味さを知ってほしいという強い思いだと感じています。

60年以上も同窓会を通して沖縄戦や平和について訴え続けてきた同窓生たち。

その半分の年月しか取材をしていない私(筆者)ですが、昨今の情勢に気が重くなることがありました。

今回、90代の元女学生たちを取材したことで、まだ、何かできることがある、しなくてはいけないと、決意を新たにすることができました。
(11月12日「ニュース7」で放送)