ある特攻隊員の日記 80年後の大学の後輩が向き合う

ある特攻隊員の日記 80年後の大学の後輩が向き合う (2023/11/28 映像センター カメラマン 早川きよ)

「弟よ妹よ お父さんお母さんを大事にしてあげて下さい」
「お兄さんは死なない 遠い南西諸島の空よりきっときっと皆様を護っています」

太平洋戦争中、特攻隊員として命を落とした23歳の男性が残した遺書です。

若者たちはどのような心境で特攻へと挑んだのか。

80年後の大学の後輩たちがたどりました。

80年前、大学生たちは戦場へと向かった

今から80年前、兵力が不足した日本では、多くの学生たちが学業を中断し兵役に就きました。

「学徒出陣」です。

中には大学を繰り上げ卒業した人もいました。

富澤健児さん

その一人が富澤健児さん。

大正11年に東京で生まれ、昭和16年に中央大学に入学。

大学と特攻隊の名簿にその名前が記載されていました。

後輩がたどる富澤先輩の足跡

中央大学のあるゼミの調べでは、大学関係者の少なくとも60人以上が特攻隊として亡くなっています。

なぜ先輩たちは亡くならねばならなかったのか。

4年生の伊藤光雪さんは、2年前からゼミの仲間とともに特攻隊員について調べてきました。

伊藤光雪さん

伊藤光雪さん
「もともとは全然、戦争に興味がなかったです。本当に『特攻って何?』っていうレベルだったのですが、ゼミで亡くなった方の記録を残そうというプロジェクトが始まり、できるところまで取材してみようと思いました」

名簿に載っていた富澤さんについて調べることにした伊藤さん。


大学や図書館などに残る資料を頼りに、富澤さんの生前の住所を見つけましたが、自宅はすでにありませんでした。

それでも近所の聞き込みを続けると、親戚が都内に住んでいることが分かりました。

残されていた12冊の日記

早速、親戚宅を訪ねた伊藤さん。

親戚たちは、亡くなった富澤さんの話を繰り返し聞かされていたと言います。

富澤さんのおいとめい

富澤さんのめい
「おばあちゃん(健児さんの母親)が、健児おじさんが特攻で飛び立つ時の話をよくしてくれました。『家の上空を3回ぐるぐる回って飛び立って行った』と聞いています」

富澤さんのおい
「母親(健児さんの妹)が、『こんなに優秀な兄がいたんだよ』としょっちゅう言っていました。自慢の兄だったようです」

そして、12冊のノートを託されました。

中央大学に入学した昭和16年から、亡くなる昭和20年まで、富澤さんがつけていた日記でした。

今と変わらぬ大学生活がそこにあった

日記には当初、何気ない日常がつづられていました。

昭和16年4月16日
「入学式に出席す 今日から正式に中大の学生なり」

昭和16年9月25日
「困るのはノートの問題だ。(略)中等学校と違って今ではあまり友達をつくらず黙々とこつこつと一人でやって行くことだ。大の男が頭を下げてノートを借りるなどは男らしくない」

スマホに記録した日記を読む伊藤さん

日記をすべてスマホに記録し、読み込んでいった伊藤さん。

同じ大学生として、親近感がわいたといいます。

伊藤光雪さん
「私が初めて読んだ時に、やっぱり普通の大学生の日常があったんだっていう部分に共感しました。大学でノートを借りる、借りない問題は結構日常的にあって、『授業めんどくさいな、友達に借りちゃおうかな』と。そんな日がみんな必ず1回はあると思うのですが、富澤さんも味わっていたんだと思いました」

日記には「小学校の教師になりたい」と将来の夢もつづられていました。

しかし…

日記の内容に変化が…

その年の12月、真珠湾攻撃をきっかけにアメリカとの戦争が始まります。

昭和16年12月8日
「やった やった 米英に対して戦争だ 兼て予測してはいたが、とうとう来る所まで来た。一億国民の胸に存在していた何か割切れぬ感じがこの瞬間ふっとんだ。やるんだ。戦ひ抜くんだ。戦って戦って戦ひ抜くのだ」

熱狂していた様子がうかがえます。

日記には、たびたび、友達や恩師が軍隊に入隊したため駅まで見送ったという記述が出てくるようになりました。

そして昭和18年9月、戦況が悪化したことなどから富澤さんは大学を繰り上げ卒業し、翌10月に陸軍に入隊しました。

陸軍特別操縦見習士官の1期生として採用され、パイロットとして訓練を受けました。

左から2人目が富澤さん

初めて単独飛行した日の日記です。

昭和19年1月13日
「初ノ単独飛行許サル(略)念願ノ達成サレルニ當リ感無量ナリ(略)初陣ニモ似タル喜ビヲ覚ユ」

仲間と充実した軍隊生活を送っていることがうかがえる記述もあります。

昭和19年4月21日
「飛行場を戦友達とかけるのは何とも言えない喜びで一杯である」

日記の最後は昭和20年1月6日、こう締めくくられていました。

「死ヲ常ニ心ニアツルヲ以テ本意ノ第一ト仕リ候」
「捨身ノ気概ニテ奉公ニ努ムベシ」

このあと日記は3か月間、白紙のままでした。

昭和20年4月6日。

富澤さんは鹿児島の基地から沖縄方面に出撃。

23歳の若さでした。

伊藤光雪さん
「空白の期間に富澤さんが何を考えていたかというのが聞ける機会があったら聞きたい。なぜ23歳で自分で突っ込んでいくような死に方を、富澤さんがしなければいけなかったのか。日記を読んですごい近い人に感じている人が、何で飛行機に乗って自分で突っ込んで死んでいくような死に方をしなければいけないのかという悔しさを感じました」

先輩たちが生きた証は確実に私たちが…

伊藤さんは富澤さんが出撃した鹿児島にも足を運びました。

そこには、富澤さんが出撃する前に家族に書いた遺書も残されていました。

「弟よ妹よ お父さんお母さんを大事にしてあげて下さい」
「お兄さんは死なない 遠い南西諸島の空よりきっときっと皆様を護っています」

そこには、日本を護る(まもる)ためにみずからの命をささげる思いがつづられていました。

伊藤さんたちは富澤さんの生い立ちなど一連の取材を40分ほどのドキュメンタリーにまとめ、YouTubeで公開。

最後はこう締めくくっています。

「先輩たちが生きた証は確実に私たちが受け継いでいきます」

ドキュメンタリーは富澤さんの親族のもとにも届けられました。

伊藤さんは、富澤さんについて調べることで、戦争について一人一人が考えていくことが大切だと感じたといいます。

伊藤光雪さん
「富澤さんのドキュメンタリーを通じて、特攻で亡くなった人、戦争で関わった人は普通の人だったということを伝えていきたいです。戦争がいざ始まってしまうとすぐに巻き込まれて取り返しがつかないことになってしまう。平和な今のうちに何がよくて何がよくないのかをきちんと考えなければいけないと思います」

(10月27日「首都圏ネットワーク」で放送)