「横丁」が伝える戦争からの復興

飲みながらでも聞いて
"横丁”の戦争からの復興(2019年7月10日 ネットワーク報道部 成田大輔記者)

東北最大の都市、仙台市の中心部に、ぽつんと昭和の香り漂う一角があります。
“壱弐参(いろは)横丁”です。

仙台局に勤務すること3年。客として通い続けたこの場所が、どうやら仙台の戦後復興と関わりがあるらしい。これまで夜の顔しか知りませんでしたが、昼間に取材で訪ねると、横丁はまさに歴史の資料館でした。

誕生のきっかけは
仙台空襲

3坪ほどの長屋のような飲食店が100軒ほど連なる、壱弐参横丁。最近は外国人観光客も多く訪れる仙台の人気スポットです。

年季の入った事務所の建物は、戦前の小学校の校舎を再利用。高層ビルが建ち並ぶ市の中心部で異彩を放っています。

仙台市は終戦直前の昭和20年7月10日、アメリカ軍による空襲で市内の約2割が焼失し、1000人を超える市民が犠牲になりました。

人々が寝静まった午前0時すぎから約2時間にわたった深夜の無差別爆撃。当時を知る人は次のように振り返ります。

空襲体験者の話:
「真っ暗だった仙台の空が、赤く染まっていくのを震えながら見ていました」
「西も東も見渡す限り火に囲まれて、まさに火の海という状況でした」

一面が焼け野原となった仙台市の中心部に昭和21年、「仙台中央公設市場」が誕生しました。“壱弐参横丁”の始まりです。

焼け跡から女手一つで

この市場で生まれ育った佐藤賢三さん(77)です。

賢三さんの父親は、終戦後もシベリアで捕虜となったまま帰らず、母親のはなさんが女手一つで育てました。

母親のはなさんは終戦時、25歳。賢三さんの手を引きながら野菜や米を背負い、空襲で建物が壊れ砂ぼこりが舞う道を、朝7時から夕方遅くまで、一日中行商して回りました。

休むことなく歩き続けても商品が残り、ただ同然で売らざるを得ない日もあったということです。

3歳だった賢三さんに当時の記憶はあまりありませんが、大人になってはなさんと当時のことを振り返ったとき、はなさんは
「冬はコートを着て夏は半袖を着るように、商売もその時その時の状況に応じてやるしかない。でも商売ができることへの感謝だけは忘れちゃいけない」
とよく話していたといいます。

小料理屋をオープン

そうして貯めたお金で、完成まもないこの市場で出した店が小料理屋です。カウンターとテーブル席2つの小さな店。はなさんは店の2階の4畳半で一人息子の賢三さんと2人で暮らしながら、年中無休で働き続けました。

佐藤賢三さん:
「人気メニューは煮込み料理。お腹いっぱい食べてほしいと安い値段で出していました。戦後の混乱期で食い逃げされることも多かったそうですが、母も気が強く負けていませんでした。それだけ必死に頑張っていたんだと思います」

引き継がれる横丁精神

賢三さんは昭和62年、宮城を代表する秋保温泉に旅館を創業。はなさんにちなんで「華乃湯」と名付けました。

はなさんは5年前に亡くなりましたが、どんなにつらい時でも客を第一に考えてきたはなさんのおもてなしの心を、従業員の教育に生かしているといいます。

佐藤賢三さん:
「“横丁”は私にとってふるさと、商売の原点ですね。焼け跡からここまで立て直すことができるとは当時は夢にも思っていませんでした。母には感謝しかないです」

横丁の小さな店の一軒一軒には戦後を必死に生きてきた人たちのエピソードがあり、横丁には今も当時の人たちの思いがきっと根付いているのだと感じました。

秘伝のたれを「疎開」

一方、横丁には空襲の被害を免れた伝統の味を、今に伝えている店もあります。それがこちら。

うな重です。肉厚で脂がのったうなぎを炭火で焼き上げ、口の中に香ばしさが広がります。決め手はたれです。

明治元年創業の「明ぼ乃」は、もとは仙台市の中心部に店を構えていました。戦争が激しさを増すなか、当時の店主の佐々木留之助さんは、たとえ店は焼けても、代々使い続けてきた「たれ」をなんとか守り抜きたいと考えました。

望みを託したのが、店の近くにまつられていた「おいなり様」でした。留之助さんは仙台空襲の直前、「おいなり様」の周りの地面を掘り、たれが入った「かめ」を埋めて「疎開」させたのです。

空襲で店は全焼してしまいましたが、たれは難を逃れて無事でした。

店は戦後まもなく市場に移転。四代目となる孫の公正さん(72)が今も横丁で、152年続く伝統の味を守り続けています。

明ぼ乃 佐々木公正さん:
「ウナギのたれはね、すぐにはできないんですよ。最高のしょうゆと最高のみりんであっても、結局継ぎ足し継ぎ足しでやっていかないといけないし、たれが一番大切なものです。
たれが守られ、そして戦後すぐに市場で店が出せるようになって、今も商売を続けていられる。ありがたいと思っています」

空襲でたとえ店は焼かれても、その味を守ろうという老舗の心意気。おいしさの奥に潜んだ、先々代の執念を感じました。

横丁と復興の歴史を
語り継ぐ思い

今回の取材で一番お世話になったのが、横丁の組合の副理事長の松根成さんです。横丁にある洋品店の息子として生まれた松根さんは、横丁と仙台の戦後復興の語り部でした。

昭和28年生まれで戦争を知らない松根さんが、なぜここまで情熱を傾けるのか。

松根成さん:
「時代は変わり、どんどん新しい建物ができていますが、この横丁をもう一度作ろうと思っても、絶対に作れません。空襲の焼け野原から立ち上がったことを忘れない、歴史の資料館みたいな場所です。
老朽化は進んでいますが、それぞれの店が一生懸命頑張って、町並みを維持できている。平和の象徴としていつまでも楽しんでもらいたいです」

この取材の宮城県内向けの放送は、仙台空襲からちょうど74年となる7月10日でした。

インタビューにも答えた松根さんは、放送をとても楽しみにしてくれていたそうですが、まさにその日に、病気のため亡くなりました。

最後にお会いしたのは1週間前。突然の訃報に驚くとともに、戦争や戦後の歴史を語ってくれる人がどんどんいなくなっていくことを、まさに痛感させられました。

仙台市の近現代史を調べている研究者の1人は「この横丁は戦後復興を支えた場所だが、公的な記録はほとんど残っていない。昔ながらのこういう場所が残っているのはとても貴重だ」と話しています。

かつては全国のどこにでもあった古い商店街から見えてきた、戦争をくぐり抜けた人々の記憶。あの戦争で自分たちの地元では何が起き、どうやって復興してきたのか。新しい時代になって初めてのこの夏、皆さんも周りの方に尋ねてみませんか。