父は不幸な軍人じゃなかった

父は不幸な軍人じゃなかった(2023/09/07 映像センター カメラマン 早川きよ)

「父の亡霊が出た!」

テレビを見ていた松岡節さん(90)は思わず叫びました。

松岡さんの父親は太平洋戦争のフィリピン・レイテ島の戦いで戦死。
たまたま見ていたニュースをきっかけに、松岡さんの“父親探し”の旅が始まりました。

(映像センター カメラマン 早川きよ)

9割以上が犠牲になったレイテ島の戦い

太平洋戦争終盤の1944年10月から始まったフィリピン・レイテ島の戦い。

日本は劣勢を盛り返そうと時の総理大臣の小磯國昭が「日米の雌雄を決する天王山」と位置づけて臨みました。

しかし、アメリカの圧倒的戦力を前に大敗。
旧日本軍の将兵の9割以上にあたる約8万人が命を落としました。

奇跡の生還者は今

NHKはこのレイテ島の戦いから奇跡的に生還した松本實さんを取材し、去年8月に放送しました。

松本さんは102歳。
レイテ島の戦いだけは忘れることはない。
おととし夏から戦争体験を手記にまとめています。

当時、インタビューでは次のように話していました。

松本實さん
「戦場というのはこういう所なんだということを残したいと思っているんです。私はいまこうやって家族と一緒に生活できて非常に幸福ですけど、戦友たちは家族を内地に残して亡くなりました。本当に気の毒だと思っています」

私の父はレイテ島で戦死した

このニュースを特別な思いで見ていた人がいます。
レイテ島の戦いで父を亡くした奈良市の松岡節さん(90)です。

松岡節さん

松岡さんの父親、勝田太郎さんは陸軍士官学校と陸軍大学校を卒業した軍人のエリートでした。

ビルマ(現在のミャンマー)の第55師団に配属されたあと、1944年5月に第1師団の後方参謀に任命されます。武器や食糧などの兵站の責任者です。

松岡さんの父 勝田太郎さん

その年の11月にフィリピン・レイテ島に上陸し、戦死したと伝わります。36歳でした。

松岡さんは戦後、好きだった父親のことを語ることをはばかられていたといいます。

優しかった父だけど…

子どもたちの名前の「節」「礼」「武」は、いずれも「軍人勅諭」から付けたという父。
“厳格な父親”と思えるかもしれません。

1943年ビルマ出征前に 左から長女・節さん 次女・礼子さん 長男・武さん

しかし、松岡さんの思い出の中には、背が高くスマートで、鼻にかかったような甘い声で歌がうまい父の姿がありました。

小学生の頃、家で歌の練習をしていると、父親が隣で歌ってくれて、外れていた音程が直ったということもあったそうです。

また、いつも書斎で勉強していたといいます。

松岡節さん
「文芸が好きで、歴史のことをよく知っていました。とにかく勉強をしている人で、特に数学がものすごくよくできたと言っていました。父は中学3年くらいでいろんな家で数学を教えていたとも聞いたことがあります。記憶に残るのは、威厳がありながらも優しい父でした」

そんな父のことを語りづらくなったのは、戦後に出版された小説の影響もありました。

左:高木俊朗「戦死 インパール牽制作戦」文春文庫 右:大岡昇平「レイテ戦記」中公文庫

太平洋戦争のビルマの作戦について書かれた「戦死 インパール牽制作戦」。

食糧が底を尽きた前線から後方の師団司令部に「食送れ」という要求が重ねて来ましたが、師団長は食糧輸送を許しませんでした。

松岡さんの父の勝田参謀は「飢えのために全滅しかねない状況」を見かね、師団長に内緒で食糧を送ろうとします。

しかし、師団長の知るところとなり、勝田参謀は師団長から殴られ続けたといいます。

「戦死 インパール牽制作戦」より
『勝田参謀の前を行ったり、来たりしながら、そのたびに大きな握りこぶしでなぐりつけた(略)勝田参謀の顔は色が変わり、ふくれあがって、血が流れていた(略)勝田参謀が自分の小屋に帰った時は、ばけ物のような恐ろしい顔になっていた』

「戦死 インパール牽制作戦」より

「戦死 インパール牽制作戦」より
『勝田参謀はおびえて、仕事も手につかなくなった』

レイテ島の戦いを記した作家、大岡昇平の「レイテ戦記」。
この作品では勝田参謀は次のように描かれていました。

「レイテ戦記」より
『リモン峠の戦いの経過で、あまり働いていなかった』

『なんとなく影の薄い、おくれ猿のような存在となっていた』

松岡さんは父親の優しい性格が軍隊では“あだ”になったのではないかと感じています。

松岡節さん
「正義感に満ちた真面目な人だったが、軍隊では通じなかったのかなと私は今思います。もし父が生きていたならば『何で自分がそうしたか』という自分の主張をするだろうと思います。しかし、死者は何も言えません」

父親は本当に小説で描かれたような人物だったのか。
松岡さんは確かめようのない思いを長年抱え続けてきました。

父の真の姿を求めて

そんな時に目にしたレイテ島の戦いから生き残った松本さんのニュース。
父はどんな人だったのか知りたい。
松岡さんは、去年12月、妹らと共に松本さんのもとを訪ねました。

2022年12月 松本實さん宅

レイテ島の戦い当時、松本さんは24歳。
第1師団で師団長の副官をつとめ、勝田参謀と同じ師団司令部に所属していました。

1944年 第1師団司令部 中国にて

松本さんは、勝田さんが参謀でありながら“安全な”参謀室にとどまることなく、砲弾が落ちてくる危険がある表に出て指導する姿が印象に残っているといいます。

松本實さん
「レイテ島の司令部には参謀室があって、ほかの参謀はその部屋にいたのですが、勝田参謀はそこに入らないで下の道路のところに穴を掘って、個人的に1人で入っておられました。なぜかというと、そこにいると野砲とか各第一線に送るいろんな弾薬や食糧などがその道路を通り、輸送状況を確認ができるからです。決して安全ではないのですが『俺は後方参謀だ』と言って参謀室には入らないで、輜重隊(武器や食糧を輸送する部隊)を中心によく面倒をみていらっしゃいました」

戦記小説ではほとんど描かれてこなかった父親の姿。

「偉い人やったね」

松岡さんは妹と父を振り返りました。

レイテ島の脱出前夜

松岡さんはどうしても聞きたかったことがあります。
松本さんがレイテ島を脱出する前夜のことです。

レイテ島の戦いでは、日本軍は島の一角に追い詰められていきました。

敗色が濃厚となる中、勝田参謀と松本さんの所属する第1師団には島から“転進”するよう命令が下り、レイテ島から脱出することになりました。

ところが、用意できる船の数が限られていて、750人程しか乗船できないというのです。

第1師団の将兵が脱出した海岸 2019年12月

この時点で生存していたとされる第1師団の将兵は約2700人でした。
松本さんは脱出できましたが、勝田参謀はレイテ島にとどまることになりました。

レイテ戦記には勝田参謀についてこう記述されています。

「レイテ戦記」より
『残留組に繰り込まれた不幸な軍人であった』

松本さんはレイテ島を脱出する前夜、勝田参謀と同じ小屋に泊まっていました。

松岡さんは耳の遠くなった松本さんにきちんと質問の意図が伝わるようにと、事前に用意した質問用紙を見せながら尋ねました。

松岡さん
「最後の晩に一緒になったというその時の話を聞きたいんです」

松本さん
「いろいろ戦場で話はうかがったんですが、その時に必ず私に言ったことは『俺はレイテで死ぬよ』ということでした。最初から覚悟をされていたようです。最後に勝田参謀と一緒に泊まった時も『もう俺はここで死ぬつもりで来たんだ』とはっきりおっしゃっていました。第一線の戦闘からずっといらしている勝田参謀は、戦闘状況が分かっていたんだと思います」

松岡さんはさらに尋ねました。

松岡さん
「母が言っていたのは『戦争に負けるっていうんじゃないけれども、諦めていたという気持ちを父は持っていたのかな』ということでした」

松本さん
「勝田参謀は決して戦争を諦めていたのではないと思います。勝田参謀は『作戦参謀と情報参謀は行け。俺は後方参謀だからここに残るぞ』ということをおっしゃられていました」

初めて知った父の覚悟。
松本さんが語ってくれた父親の姿は、戦記小説で描かれている人物とは違っていました。

心のわだかまりがようやくとけた瞬間でした。

松岡節さん
「もう奇跡です、奇跡。今まで幻であった父の最期がこれではっきりしました。父の覚悟といいますか。それはやっぱり責任感のある人でした。これでもう満足しました」

父の生涯を書き残す

児童文学作家として長年活動してきた松岡さん。

面会をきっかけに松岡さんは、自分の手で父親の生涯を残しておきたいと考えるようになりました。

読み返したのは押し入れに保管していた父親の日記です。

1943年~1944年 勝田参謀がビルマで書いていた日記

ビルマに出発した1943年2月から始まり、日本に一時帰国した翌年3月までのことが書かれています。

頻繁に頭上をイギリス軍機が飛び交って近くに砲弾が落ちてくる様子や、激しい戦場の第一線に食糧を送ることができない苦悩などがつづられています。

師団長から注意を受けるたびに自分の能力が足りないためだとし「申し訳ない」との記述もあります。

勝田参謀が詠んだ短歌の中には悲痛な歌もありました。

皮肉なる 言の葉聞きて 黙しける 生き甲斐なき世に 生れたるなり

松岡節さん
「読み始めたらつらくて。短歌からは父の悲愴な思いが伝わってきたように思います。父の苦悩というのは大きく、痛く強く胸に突き刺さってくるんです。戦争になると人間は凶器になり、人間が本来持っている優しさは通じなくなるのかもしれません」

父親の苦悩を知り、松岡さんは3か月ほど書けなくなったと言います。
そんな中、戦場でも豊かな人間性を失わなかったことが感じられる父親の文章や短歌を目にします。

文讀みて 浜辺をそぞろ 散歩せば 内地に續く 水をみるなり

節さんたち3人の子どもからの手紙が日本から届いた日に詠まれたものです。

10歳だった節さんは「みんな元気である」、次女の礼子さんは風邪気味、4歳になったばかりの武さんは戦車や自動車の絵を描いてきてくれたと日記にはあります。

また、仲間を思う歌もありました。

惜しみても 尚あまりある 人々を 失ふことの 如何に苦しき

松岡さんは、家族や仲間を思う父親の優しさに触れ、再び筆をとりました。
そして、父親の人生を書き残す意味を次のように語ります。

松岡節さん
「戦争に参加した心優しい人間の一生を書き残しておいたほうがいいんじゃないかなと。人間としての勝田太郎はどういう人物だったのか、私の父はどんな人だったかなということを生い立ちも含めて、いろいろなことを書いていくだけの話です。父の供養のためにと思って書いているだけです。私たち戦争体験者は戦争の大変さ、あの怖さを知っているから、あの時代が来たら困るということをものすごく感じます。もしこれを読んでくれる人がいれば、戦争はむだなものだなということを分かってほしいと強く思います」