黒く変えられた姫路城「暗黒の4年間だった…」

黒く変えられた姫路城「暗黒の4年間だった…」(2023/08/29 大阪局 カメラマン 福本充雅)

世界遺産に登録されて今年で30年を迎える姫路城。
まぶしいほどの白さを誇り“白鷺城”とも呼ばれています。
しかし太平洋戦争中、黒く変えられていたことをご存じでしょうか?

「身内や先輩が次々と戦死していく。あの4年間は暗黒でした」
“黒い姫路城”の時代に生きた人々の戦争とは? 94歳の男性の証言でひもときます。

(大阪放送局 カメラマン 福本充雅)

まぶしいほどの白さ ”白鷺城”

擬装せし姫路城(橋本コレクション) 所蔵:姫路市立城内図書館史料整理室

日本の城郭建築の傑作とうたわれる姫路城。
壁や屋根瓦がしっくいで固められ日差しを浴びると白く輝きます。
華やかで美しい姿は、世界中から集まる観光客を魅了しています。

際立つ白さが弱点に 敵機の標的への懸念

戦争が拡大に向かう、日米開戦1年前の1940年。
政府や陸軍、姫路市の間で姫路城の防空対策が議論されました。

懸念されたのは、壁の白さでした。
目立ちすぎて敵機から発見されやすいのではないかと考えたのです。

そこで選ばれた対策が、城の色を“黒く”変えてしまうことでした。

当時からすでに文化財の価値が認められ、姫路城は旧国宝に指定されていました。
黒い塗料を使用すると、美しいしっくい塗りの城壁を損ねてしまうことから“黒い網”で覆い隠すことにしたのです。

網目の大きさは3センチ。わら縄を黒く染め、上下に竹の棒を取りつけた
2~4メートル四方の”黒い網”が壁につるされていきました。

黒い網がつるされたくぎ

今も城壁の一部にはL字型のくぎがわずかに残っています。

”城の色を変える”大規模な作業。
攻撃目標になれば、城だけでなく民家や工場にも被害が及び、市民の命が脅かされます。敵機が攻めてくると想定される南側、さらに東と西に面した壁が、2年かけて黒く覆われていきました。

くぎが残る城壁(姫路城 西の丸)

姫路市立城郭研究室 工藤茂博 学芸員
「戦前に城の修理を終えたばかりで、壁の損傷を最小限にするための苦肉の策でした。権力者の威厳などを見せるための城ですが、それをあえて見せなくしたのは、姫路城の歴史の中では初めてだったと思います。世の中が戦争のためにどんどん変わってきていることを象徴するような出来事でした」

“黒い姫路城”の下 戦争に突き進む

姫路市の元高校教師、黒田権大さん(94)。
当時、姫路城の敷地内にある旧制中学校に通っていました。
城が黒くなる様子を目の当たりにし、戦争が日々の暮らしに近づいていると感じたといいます。

「入学した時は白かったと思います。黒くなると何か暗い印象でした。今思えば悪い予兆のようなものだったのではないか」
それ以降、黒田さんにとって黒い姫路城は戦時中の記憶を呼び起こす象徴となっていきました。

城が黒く変わっていくにつれ、学校でも戦争の色が濃くなっていきました。
黒田さんは兵士の心構えを学び、実戦に備える授業が印象に残っているといいます。

黒田権大さん

黒田権大さん
「行進では脚を高くあげ『歩調をとれ!』『歩調をとれ!』と厳しく指導されました。偉い人の前では、敬礼をしたまま歩かなければなりませんでした」
「海軍や航空隊に入った上級生がすばらしい服装で朝礼にやって来て『あとに続くものを信ず!』と呼びかけるんです。その言葉にあこがれました」

”我々のあとに続いて国を守ってほしい”

黒い姫路城のもと、軍事教練の授業を受け、先輩たちの言葉にも感化され、いつしか黒田さんも先輩のように国を守る「立派な兵士になりたい」と思うようになっていました。

「まるで黒鷺城みたいだ」 祖母の死に直面して…

黒田権大さん(当時14歳 中2)

しかし1945年7月3日深夜。黒田さんは戦争の厳しい現実を突きつけられます。
大都市ではじまっていた空襲が軍需工場のある姫路にも及んできたのです。
黒田さんは家族から「早く逃げろ!」と言われ、田んぼの水路に身を隠しました。

黒田権大さん
「焼い弾が束になってシュシュシュという音をたてながら水田に落ちました。30~40センチ目の前に1本が落ちた時は怖かった」

姫路空襲による被害

焼い弾は爆発せず、黒田さんは九死に一生を得ました。
なんとか空襲から逃れたものの自宅は焼け落ち、慕っていた寝たきりの祖母が、爆撃の犠牲になって見つかりました。黒田さんが16歳の時でした。
この壮絶な経験を機に、兵士を目指していた黒田さんの心は一変します。

黒田権大さん
「祖母の遺体を掘り出してトタン板にのせ、小さな墓場へ運んで穴を掘って埋めました。人間の死体を見たのは初めてで、しかも祖母の遺体ということもありショックが大きかった。めちゃくちゃショックでした」
「空襲によって考えがパッと変わりました。こんな戦争はやめるべきだ。一日も早くやめるべきだと思いました」

黒田権大さん

黒い姫路城の時代、防空訓練や軍需工場への勤労動員、食糧難で市民は疲弊し、日々を生き抜くことで精いっぱいでした。
それまで白く輝く“白鷺城”を誇らしく感じていた黒田さんも、城に美しさを感じなくなったといいます。

黒田権大さん
「お城を見上げることが少なくなったと思います。身内や先輩が次々に戦死していく…。城の色が黒く変わったあの4年間は暗黒でした」

「『まるで黒鷺城みたいだ』と(街では)陰口もささやかれていたようです」

黒い城の記憶 戦時下の悲劇を次世代へ

平和学習の授業(姫路市立山陽中学校)

黒田さんは教員を退職後、毎年語り部としてみずからの戦争体験を伝えています。活動はこの30年あまりで330回を超えました。
今年7月、平和学習に取り組む姫路市立山陽中学校を訪れました。

旧制中学校に入学したころから城に黒い網をかぶせる工事が始まっていたことや、
最も尊敬していた5歳上の兄が中国に出征し、21歳の若さで戦死して遺骨も戻らなかったこと、そして泣き崩れる親の姿など、戦争の現実を生徒たちに話しました。

最後に黒田さんは「戦争は人類最大の罪悪でありどんな戦争も決してやってはいけない」と、これからの時代を担う若者たちにメッセージを送りました。

戦争体験を聞いた中学生は
「実際に黒い網をかけられたところを見たことがないし、黒田さんの話を聞いて、当時、姫路でどういうことが起きていたのか想像できました」

「いろんな歴史を私たちが知って、後世に受け継いでこれからを生きて行かないといけないと思いました」

姫路城は “平和のシンボル”であってほしい

黒田さんが今も鮮明に覚えている光景があります。
終戦後、焼け野原に立つ黒い網が取り除かれた“白い姫路城”の姿です。
空襲で焼い弾が直撃したものの、火は燃え広がらずに焼失を免れていました。

黒田権大さん

黒田権大さん
「空襲で悲しい出来事が数多くありましたが、城が残ったことはせめてもの救いでした。希望とか将来性をイメージさせてくれるので姫路城は平和のシンボルであってほしい。”白鷺城”は白くあってほしいと思っています」

姫路城は今年 世界遺産登録から30年の節目を迎えます。色鮮やかなライトアップが美しさを一層引き立て、世界中の観光客が訪れる城は、白さと荘厳さに魅了された人々の笑顔に包まれています。

しかしその裏で太平洋戦争中、城が黒く変えられた歴史は少しずつ忘れられようとしています。

「“黒い姫路城”の時代に戻してはならない」という黒田さんの平和への願い。

”黒い姫路城”は戦時下であえいだ人々のつらさや悲しみを刻む”戦争の象徴”として、観光でにぎわう平和な時代にも心にとどめおくべき記憶だと感じさせます。