戦後78年 ようやく私は日本人になりました

戦後78年 ようやく私は日本人になりました(2023/08/23 映像センター 桑原義人、マニラ支局長 酒井紀之)

おびえる表情で写真に映る少女。

去年12月に発見されたその写真は、太平洋戦争下のフィリピンでアメリカ軍が作成した捕虜名簿の中にありました。

当時6歳の少女は、いわゆる「残留日本人」。

国籍がないまま長年フィリピンで暮らし、日本国籍を求め続けてきました。

戦後80年近くがたって見つかった写真はこの夏、84歳になった少女の人生を大きく変えることになりました。

(報道・映像センター 桑原義人、マニラ支局長 酒井紀之)

今もフィリピン奥地で生きる

フィリピン南部ミンダナオ島の中心都市、ダバオから車で2時間。

広大なバナナ農園を抜け、さらにそこから険しい山道を登るとー。

竹で編まれた昔ながらの小さな家に、彼女は暮らしていました。

私たちを笑顔で迎えてくれたのが、84歳になったペラヒア・ディアモナさん、日本名、星子ハルコさんでした。

星子ハルコさん

山の斜面に建てられた、水道もガスも無い家からは、ハルコさんが戦後、生活に苦労してきたことがうかがえました。

父親が日本人だというハルコさん。

いったいなぜ、日本人と認められずに無国籍の状態で山奥に暮らすことになってしまったのかー。

私たちはハルコさんのこれまでの人生を伺うことにしました。

ミンダナオ島に築かれた豊かな移民社会

ハルコさんが暮らすミンダナオ島に日本人が移民を始めたのは、いまからちょうど120年前の明治時代末期にあたる1903年でした。

戦前 麻の栽培で栄える

移民した日本人が未開のジャングルから開拓したダバオ一帯は、軍需物資で船のロープの材料となる麻の生産地として栄えたのです。

戦前には最大で2万人を超える日本人が暮らし、東南アジア最大の移民社会が築かれていたといいます。

日本からの移民の大半は男性で、現地のフィリピン人女性と家庭を持ちました。

熊本県出身のハルコさんの父親、星子末藏さんもその一人でした。

ハルコさんの父親 星子末藏さん

フィリピン人のマルセリナさんとの間に、9人の子どもをもうけました。

ハルコさんは7人目の子どもとして生まれました。

戦前にフィリピンに渡った父親の末藏さんは、麻の栽培と漁業で成功し、子どもたちを日本人として育てました。

家族の会話は日本語で、経済的にも不自由のない生活を送っていたといいます。

戦渦に巻き込まれた家族 ~そして父との別れへ~

ところが太平洋戦争が一家から全てを奪い去りました。

ミンダナオ島で日本軍は、アメリカ軍とフィリピンゲリラとの間で激しい地上戦を繰り広げました。

ハルコさん一家は戦禍に巻き込まれ、父親の末藏さんは日本軍に通訳として協力することになったといいます。

現地の民間日本人が軍に協力

ハルコさん
「家の近くの海辺には日本軍の駐屯地が作られていました。日本兵は、フィリピンのゲリラだと疑われる現地住民を父の元へ連れて来ては、敵対心がないかなどを、現地語が話せる父に通訳をさせて調べていました」

当時はゲリラと疑われれば、処刑されることも多かったといい、日本人とフィリピン人は互いに憎しみを深めました。

戦火がいよいよ迫ると、ハルコさん一家は山奥へ避難します。

そこで、先住民のもとでかくまってもらいながら避難生活を続けました。

しかし終戦間近、家族の命を守るため、父親の末藏さんはアメリカ軍に投降することを決意。

一家は捕虜となり、日本人を集めた収容所へ入ることになりました。

ハルコさん
「ワイヤーが張り巡らされた収容所からは外に一歩も出ることを許されません。雨風もしのげない建物で、まるで牛のような生活を半年間送っていました」

つらい収容所暮らしの先に待っていたのは、家族の離散でした。

ハルコさんは、その時のことを今でも忘れられないと言います。

ハルコさん
「父は子どもを全員日本へ連れて行きたいと言いました。でも、許可がおりませんでした。幼い子どもは一緒に連れていくことは許されないとアメリカ兵が言ったのです」「別れのとき、父は泣いていました。そして、私たちに振り向くことなく去って行きました」

父親と、当時15歳の年齢に達していた3人の兄と姉だけが日本に強制送還されました。

母親とハルコさんら幼い子ども6人はフィリピンに取り残され、「残留日本人」となりました。

渦巻く偏見と差別の中で生きた戦後

外務省の調査によれば、戦後に日本人の父親と離れ離れになり、フィリピンに取り残された子どもの数は少なくとも3800人にのぼります。

こうした子どもたちは、フィリピンに多くの犠牲をもたらした敵国の子どもとして、偏見や差別の中で生きることを余儀なくされました。

ハルコさん一家も戦後、自宅を焼き払われ、財産は全て没収されました。

日本や父親とのつながりを示すものは全て処分し、山奥に身を隠す日々。

学校にも通えず、食事も満足にとれない生活を送ったと振り返ります。

ハルコさん
「当時のフィリピン人は、日本人の血を引く人を憎んでいました」「食べるものが何もないのに近所の人も助けてくれず、孤立しました」「親戚でさえ私たちに手を差し伸べてくれず、飢え死にしてしまえばいいと思っていたのです」「お米はなく、バナナやサツマイモを食べて過ごしました。とても貧乏で、1日1食の日もありました」

父親と別れておよそ10年後。

困窮の中で母親は心臓の病を患い、50歳で亡くなりました。

残された子どもたちの生活は兄と姉が農業で支え、ハルコさんたちはなんとか生き抜くことができたと言います。

ハルコさんはその後、27歳の時にフィリピン人の男性と結婚。

小さな畑を耕しながら、6人の子どもを育て上げました。

しかし、貧困から抜け出すことはできませんでした。

ハルコさん
「姉はよく、父と一緒に日本へ行っていればよかったと口にしていました。残されたきょうだい全員が後悔して生きてきました」

私たちは日本人だ ~声をあげはじめた同胞たち~

戦後のフィリピンで反日感情が和らぎはじめたのは、日本からの経済支援が本格化した1980年代に入ってからでした。

それまでみずからの出生をひた隠しにしてきた残留日本人が、ようやく口を開き始めたのです。

そうした残留日本人によって、フィリピン各地に日系人会が結成され、生き別れた父親さがしが始まりました。

こうした動きの中でハルコさんにも転機が訪れます。

戦後50年を迎えた1995年に日本の外務省が行ったフィリピン全土で初めてとなる残留日本人の実態調査。

この調査に、ハルコさんたちきょうだいも参加しました。

フィリピンに残された6人のきょうだい。左から3人目がハルコさん

『これで日本人とようやく認められる。生き別れた父親にも会える』と期待したというハルコさん。

ところが調査は人数を把握するためだけに行われ、残留日本人を日本人と認めることはありませんでした。

フィリピンの残留日本人は、たとえ日本人と認められても国から補償や支援を受けられるわけではありません。

日本人として認めてもらいたいー。

その思いを問うと、ハルコさんは語気を強めて答えました。

「私のお父さんは日本人。だから私も日本人でしょ。当たり前よ。生き別れた父、兄や姉にずっと会いたいと祈ってきたのだから」と。

父系血統主義だった日本とフィリピン

子どもの国籍をめぐって、かつて日本とフィリピン両国の法律では、父系血統主義がとられていました。

つまり、父親が日本人であれば、子どもも自動的に日本国籍となったのです。

ところが、ほとんどの残留日本人は父親との父子関係を証明することができません。

戦後、迫害や差別を恐れて、日本人の父親とのつながりを示す書類や写真などを焼き捨て、隠れて生きることを余儀なくされたからです。

このため、残留日本人の多くが無国籍状態に置かれることになりました。

国籍取得 進まぬ支援の現場

この問題を解決しようと、政府に代わって20年前から残留日本人の日本国籍取得を支援してきたNPO団体が東京にあります。

「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」です。

団体はフィリピンに残された残留日本人を見つけ出して、聞き取り調査を続けてきました。

日本人の父親とのつながりを証明する書類などの証拠も本人に代わって探し出します。

集めた証拠を日本国内の家庭裁判所に提出し、新たな戸籍を作成する「就籍」の許可を求めるのです。

この20年間で300人余りの日本国籍取得を叶えてきた一方、ことし3月末までに1780人が日本人と認められることなくこの世を去りました。

外務省によると、現在生存が確認されている残留日本人のうち、少なくとも151人が無国籍状態におかれているといいます。

NPO団体の代表は、日本国籍の取得に時間がかかる裁判所の手続きを経ずに、日本政府に一括で国籍を認めてもらうよう求めています。

NPO代表理事 猪俣典弘さん
「去年1年間でも100名近くが亡くなりました。ろうそくで言うと、炎がどんどん小さくなって細くなっている感じがします。このままでは問題が解決するのではなく、消滅してしまいます。一刻も早い、国の踏み込んだ支援が必要です」

発見された新たな証拠 ~米軍の捕虜名簿に映る少女~

星子一家の捕虜名簿(俘虜銘票)

ハルコさんも151人の無国籍者のうちの一人ですが、去年12月、NPOが決定的な証拠書類を発見しました。

太平洋戦争下のフィリピンにおいて、アメリカ軍が作成した日本人捕虜の名簿です。

アメリカの公文書館に保管されていた、この1万8000人の名簿の中にハルコさんと家族の記録が残されていたのです。

猪俣典弘さん
「戦争末期に捕虜となったという証言をもとに名簿を調べていくと、ぴったり一致しました。本来証拠はこうしてあるのですけど、自分たちでアクセスする術がないのです。日本側の誰かが手を差しのべないと進まないことだと改めて実感しました」

遅すぎた国籍取得 ~叶った願いと叶わなかった願い~

ことし6月上旬、ハルコさんはNPOを通して父親の故郷、熊本県の家庭裁判所へ、就籍(日本国籍取得)の申請をしました。

見つかった捕虜名簿が強力な証拠となり、就籍の許可はわずか1か月あまりでおりました。

私たちは7月下旬、NPO代表の猪俣さんとともに、ハルコさんのもとを再び訪ねました。

「きょうは良い知らせがあります。日本人と認められましたよ」

笑顔を浮かべながらも、実感がわかない様子のハルコさん。

猪俣さんは報告とともに、1枚の写真を手渡しました。

ハルコさんの姉 美代子さん

「お姉さんの美代子さんですよ。2006年に亡くなったそうです」写っていたのは、父親と日本に向かい、生き別れた姉の晩年の姿です。

せめて写真だけでもと、美代子さんの家族が託したものでした。

しばらく写真を見つめていたハルコさん。

目には、涙があふれていました。

ハルコさん
「日本人と認めてもらえたことはうれしい。でも悲しくて寂しい。こんなに年をとってしまって、父や姉とは再会できなかったのだから」

取材を終えて

国が引き起こした戦争によって、人生を翻弄されてきたフィリピン残留日本人。

その平均年齢は83歳を超えました。

ハルコさんのように強力な証拠が見つかるケースは近年ほとんど見られず、まさに時間との闘いになっています。

「生きているうちに、せめて日本人であることだけは認めてほしい」という、彼らの切実な願いが一刻も早くかなうことを願ってやみません。

ハルコさんの流した涙は、戦後78年たったいまも終わらない問題を私たちに問いかけています。