「この人の話を聞いておいで」
私はこの夏、沖縄の祖父にこう勧められ、親族の女性を訪ねました。
初めて会ったその人は、92歳。
少女だったときに経験したこと。
今も思い浮かぶ、大切な人の面影。
孫世代の私が初めて触れた、親族の戦争の記憶です。
(大阪放送局記者 瀬川愛生)
私は22歳。
今年の春、記者になりました。
沖縄では80代の祖父母が暮らしています。
「戦争のとき、どんな経験をしたの?」
そんな一言から、親族への“取材”を始めました。
祖父、安次嶺昇(あしみね・のぼる 87)が私を連れてきた先は、那覇市壺屋。
沖縄の焼き物「やちむん」で有名な観光名所です。
祖父が指さす観光マップには「防空ごう跡」の文字がありました。
1944年10月10日。
那覇の市街地は米軍による空襲攻撃で壊滅的な被害を受けました。
「10・10空襲」と呼ばれています。
当時8歳の祖父は、壺屋の防空ごうに身を潜めました。
そして今回、一緒に逃れた友人とともに80年ぶりに、その場所へ向かいました。
するとその場所は、今、カフェになっていました。
しかし、よく見ると、その奥には防空ごうの痕跡が残っています。
祖父は当時の記憶を語り始めました。
その声は少し震えていました。
祖父
「なんでああいうひどい目にあったのか…」
逃げ込んだ防空ごうでは、すぐ近くに爆弾が落ちたといいます。
「目の前が真っ黒くなったと思ったら、しだいにオレンジの光が見えて。一緒にいた兄弟のうち、1人は腕を、もう1人は足に穴があくけがをした。『ここにいて生きられるのかな』そればっかり考えていた」
当時、人々がおびえながら命をつないだ防空ごうは、その後、開発によって姿を消していきました。
祖父が逃げた防空ごうは、この地域で唯一残された防空ごう跡でした。
「今これだけ壺屋がやちむんの町として発展しているのはね、不思議なぐらい。戦争のことは正直、話したくないけど、何か知ってほしい。我々がいなくなったら、この防空ごうの話をする人もいないしね」
祖父は私に、別の親族の話も聞くよう勧めてくれました。
紹介してくれたのは、沖縄県名護市に住む親戚。
祖母の兄の妻にあたる、新里節子さん(92)です。
私も会うのは初めてです。
戦争について尋ねる私にこう語り始めました。
新里節子さん
「いつも考えますよ。私も“あの船”に乗っていたら今自分いないねって」
節子さんが“あの船”と話すのは、「対馬丸」。
戦況が悪化した沖縄から九州に向けて子どもなどを乗せて運んだ疎開船です。
当時13歳だった節子さんも弟とともに対馬丸に乗る予定でした。
住んでいた旧羽地村(現在の名護市)で集団疎開が促されたためです。
しかし、節子さんが乗り込む直前、対馬丸は満員に。
村の友人を乗せて出港した船は、1944年8月22日にアメリカの魚雷攻撃を受けて沈没。
分かっているだけで1484人が犠牲になりました。
那覇市にある「対馬丸記念館」には犠牲者の名前が記されています。
その1人、上地わか子さん。
新里節子さんの隣の家に住んでいた同級生。一番の友達でした。
「お互いに『わか子』『せっちゃん』って。わか子のお母さんが一反から同じ着物を2つ作りよったのよ。わか子と私と2人で着て喜んでね」
わか子さんは母親ときょうだい5人とともに対馬丸に乗っていました。
全員が亡くなりました。
対馬丸記念館には犠牲者の写真が並んでいます。
しかし、わか子さんの顔はありません。
わか子さんの写真は残されていないのです。
「もしわか子の写真があったら見たいですよ。でも、はっきり見えていますよ、私の頭の中では。おかっぱ頭で、もの静かで、きれいな顔をしていた」
母親やきょうだいとともに、13歳で亡くなったわか子さん。
ただ1人残された父親は戦後、再婚し、新たな家族をもうけていました。
わか子さんの弟にあたる上地常義さんです。
わか子さんについて、ご存じのことを教えていただけませんか?
私は上地常義さんに尋ねました。
ところが、上地家では戦争中のことを話すことはほとんどなかったと言います。
とくに対馬丸について、父親は一切語らなかったということです。
わか子さんの弟 上地常義さん
「僕も対馬丸のことは周辺から聞いた。中学生ぐらいになってからおぼろげにこんなことがあったんだなって。父親はひと言もしゃべらないし、僕も聞きづらかった」
父親は1992年に亡くなりました。
そのときの遺品整理でも、戦前の家族の写真などは見つからなかったと言います。
しかし、父親は、失われた家族のことを決して忘れることはありませんでした。
父親が戦後に書き直した上地家の家系図です。
そこには、新しい家族とともに、戦争で亡くなったわか子さんたちの名前も記されていました。
『上地わか子』6人きょうだいのお姉さん。
少女の生きた証が、父の筆で残されていました。
家系図を作り終えた父親は、1983年に息子の常義さんへ手紙を送っていました。
その中で、家系図作りを振り返って、こう書いています。
「昔のことが思い出されて筆は一向に進まなかった」
“昔のこと”を語らなかった父は、たった一度だけ、昔の家族への思いを垣間見せていました。
わか子さんの弟 上地常義さん
「忘れたくても忘れられないんでしょうね。冥福を祈りながら、この家系図を次の世代へと守り続けていきたい」
上地家に残された、わか子さんの生きた証。
今回の取材で、常義さんは、わか子さんの親友だった新里節子さんにも家系図や手紙を見せてくれました。
新里節子さん
「こんなん書き残して次の世代に残す。偉いおじさんですね。いつまでも言い伝えていかないと、忘れてはいけないことですよ」
あの時、わか子さんと同じ13歳だった節子さんは、今、92歳です。
平和な時代に生まれた私に、戦争を生き延びた節子さんが涙ながらに語ってくれました。
「戦争というのがなければね。戦争を憎むんですよ。あのときの戦争は、夢だったのかなと思うけど、やっぱり現実だったと。私たちの時代は終わるんですけど、今の子どもたちにはこういう思いを二度とさせたくない」
節子さんや祖父から初めて聞く言葉の一つ一つが、深く心に残りました。
沖縄県でも戦争を経験した人は県民の1割を切っています。
ただ、当事者の記憶そのものは失われても、思いを受け継ぐことはできるはずです。
若い世代の1人として、受け止めていきたいと思います。