「平和を作る」を仕事に

「平和を作る」を仕事に(2023/08/21 社会部 記者 富田良)

学生の時に打ち込んだことは貴重だ。

しかし、就職すると離れてしまう人がほとんどだろう。

高橋悠太さん、22歳。

学生時代に力を入れたこと、ガクチカは「核兵器廃絶を目指す活動」だった。

この春、東京の大学を卒業して選んだのは「平和を作る」を仕事にすることだった。

(社会部 記者 富田良)

高校生と核兵器を考える

高橋悠太さん
「なぜ大国が核兵器を持つと思う?」

高校生
「他国からの攻撃や侵略から国民を守るための抑止力として機能すると思います」

「核兵器を持つことで相手が攻撃しない効果があると思う」

高橋さん
「でも核兵器を持っていたら攻めてこないって証明できるかな?相手がこっちを見くびっていたら抑止って効かない、そういう認識の問題はあるんじゃないかな」

ことし6月下旬、京都の高校で行われた授業。

高橋悠太さんは講師として教壇に立っていた。

テーマは「軍事力に頼らない平和の作り方」

授業前に行ったアンケートでは、「核兵器は防衛のために役立っていると思う」と答えたのは53.3%、さらに「日本が核兵器を持った方がいい」と答えた生徒も18.7%いて、“核兵器は必要だ”という意見が強かった。

「核兵器が必要と考える生徒がこんなに多いんだと驚きました」

生徒たちに自由に意見を話してもらい、違う視点を提供する。

どうしてそう考えるのか、意見を聞いていく。

高校生
「核兵器がなければ、ちょっとしたことで戦争が起こってしまうんではないですか」

高橋さん
「戦争にならなかったケースってどれくらいあるだろう?イラク戦争は大量破壊兵器の疑惑があって起きたわけだし、戦争になった例はあるけれど。核兵器は戦争のリスクを高めるか下げるか、いろんな考え方があると思うけど、下がった例を思いついたら教えてよ」

およそ2時間の対話で、生徒たちの考えにも変化が見られた。

高校生
「核があることで日本の平和が守られているって思っていたけど、そうではないかもしれないって思うようになった」

「核兵器は脅しの道具として持っててもいいと思ったんですけど、実際に行動している人の話を聞くことで、核兵器は要らないかもしれないなという考えに変わった」

高橋悠太さん
「彼らにとって核兵器の問題って新しく学んだり聞いたりして得る情報は全然ないのに、何となく意識の中で凝り固まっているので、それを解きほぐして、いろいろな情報を共有しながら対話を進めていくことが今の日本には必要だと思います。彼らはあと60年、70年と生きてこれからの社会を作っていくわけですから、本当に核兵器のない社会をどう作るのかっていう議論を真剣にやっていきたい」

“核廃絶ネゴシエーター”として

高橋さんの肩書きは「核廃絶ネゴシエーター」

英語で交渉人、という意味だ。

高橋さんはことしの春、慶応大学を卒業し、核兵器の問題に取り組む社団法人を立ち上げた。

高橋さんは核兵器廃絶を訴えるために、国会議員への働きかけや、国際会議での発信について外務省の担当者との折衝、それに、講演活動を行っている。

自分の活動を振り返って思いついたのが「核廃絶ネゴシエーター」だった。

「ファシリテーター」や「コーディネーター」なども考えたが、しっくりこず、新たに自分で肩書きを作ったという。

きっかけは 被爆者との出会い

高橋さんがこうした活動に本腰を入れるようになったきっかけは、1人の被爆者との出会いだった。

広島県福山市の中学校で、部活動の一環として核廃絶に向けた署名活動や被爆証言の聞き取りなどを行っていた高橋さんは、中学3年生の時、広島の被爆者、坪井直さんに出会った。

坪井さんは原爆の熱線で全身に大やけどを負い、生死の境をさまよった後、教師となり、核兵器が廃絶されるまで「ネバーギブアップ」と語りながら、長年、核廃絶運動の先頭に立ち続けた。

「印象的だったのは『理性が大切だ』ということでした。もちろん腹の底には憎しみがある、だけど感情を投げつけるだけじゃ核兵器廃絶は進まない。違う意見の人とも対話し、手を取り合うことが大事だっていうことは、忘れられないですね」

坪井さんから5時間あまりにわたって当時の証言を聞き取り、その半生を冊子として取りまとめた。

できあがった本を手渡した時、坪井さんから声をかけられたという。

「私の目を見て『いいのができたな、ありがとう』と言ってもらいました。坪井さんは当時90歳を越えて、だんだん体も衰え、公の場に立てないことにもどかしさを感じていたと思いますが、私たちのような若い世代が聞き取りをして形としてまとめたことへのうれしさが感じられました。『坪井さんの体験を胸に刻みます』と約束したのですが、広島や長崎の外で広めなければいけないと思いました」

核の問題を被爆地以外でも

大学進学で神奈川県に移ってきた高橋さんは、核兵器が広島や長崎だけの問題ではないことを伝えようと、2021年に友人と2人で「NO NUKES TOKYO」という団体を立ち上げた。

当初は「現実が分かっていない」「理想を語るな」などという批判も大きかったが、徐々に賛同者は増えていった。

オンラインイベントや被爆者の証言の会を開催してきたほか、SNSを使った情報発信、それに地方議員や国会議員などに面会して、核廃絶への思いを直接伝えてきた。

当初は実績のない若者に対応してくれる相手は限られていたが、それでも少しずつ会ってくれる人から人脈を広げ、これまで面会できたのは40人以上に上るようになった。

さらに、国際会議にも参加。

核廃絶に取り組む世界の団体、そして同世代の若者とも連携を深めてきた。

「活動を始めた当初、核の問題はほとんど誰からも見向きもされなかったので、驚きました。地道に緊急性のある、ひとしくみんなの問題なんだと言い続けた結果なのかもしれません」

被爆者の思い背負った新たな道

手応えを感じてきた中で、卒業後の進路選択のタイミングがやってきた。

社会人になって日々の仕事に追われ、活動から遠ざかっていった先輩たちを見てきた高橋さんは、多くの苦労があることを覚悟の上で、新しい道を歩むことを選んだ。

みずからの体験を語ってきた被爆者は年々少なくなっている。

高橋さんに大きな影響を与えた坪井直さんもおととし、96歳で亡くなった。

高橋さんは、被爆者に代わって活動を担うはずの若者が活動から離れていく状況に強い危機感を抱き、「平和を作る」を仕事にすることを選んだ。

「離れざるをえない先輩たちの姿を見てきて、このままじゃ誰も核兵器廃絶が必要だと言わなくなってしまうと思いました。これまで出会ってきた被爆者の方々や仲間の声にも励まされ、卒業しても続けていこうと決めました」

「人々のかたわらに」“当たり前”は変わる

立ち上げた社団法人の名前は「かたわら」。

核兵器のない世界を目指す人たちの「かたわら」にいたいという思いを込めた。

高橋さんを含めた3人のメンバーで、学校での講義や講演、平和団体のコーディネーションや情報発信といった、裏方の仕事を担っている。

立ち上げから数か月、各地から仕事の依頼が相次ぎ、忙しい日々だ。

得られる報酬は多くはなく、将来の見通しは不透明だが、やりがいを感じているという。

高橋悠太さん
「『核廃絶は正しいんだ』という意見を押しつけることはしたくない。むしろ考えるための情報やツールを伝えて、受け取った人たちに考えてもらうための投げかけをしたい。考え方を一緒に見つけていきたいんです。多くの人と一緒に考えるチャンスを作れるというのは幸せなことですし、だからこそ頑張れると思っています」

核兵器の問題に関心を持つ若い人は少ないと高橋さんは考えている。

しかし、近年SDGsへの関心が一気に高まったように、世の中の「当たり前」は常に変わり続けると信じている。

「携帯電話だって10年前はガラケーが一般的だったのに、スマートフォンが一気に普及し、今はゴーグルのようなものまで出てきた。今の価値観や当たり前が10年後も同じだと思わない方がいいと思います。当たり前は変えられないと思った時点で思考は止まってしまう。最前線でやっていれば当然批判にもさらされますが、社会が変わってきていることを一番間近で感じられる仕事でもあると思っています」

新たに始めた「平和を作る」という仕事を多くの人が選ぶ未来を高橋さんは思い描いている。

「核廃絶ネゴシエーターって今は笑ってしまうような仕事かもしれないですが、仕事のカテゴリーとして定着したら素敵ですよね。今は『平和を作る』といったら笑われるし、お金にならないと言われる。だけど一人ひとりが声をあげることが無意味ではないと社会が認識していってほしいし、そういう当たり前を作るのも私の仕事だと思っています」