「写真だけではわからないものを感じた」。14歳の女子中学生がつぶやいたことばです。
中学生が見たのは焼け焦げてぼろぼろになった制服。74年前に同じ14歳の少年が着ていました。
その制服は、時を超えて原爆のむごさを語り続けています。
東京・八王子市役所の隣にある小さなビルに「八王子平和・原爆資料館」があります。
原爆に関する書籍や被爆者の手記、熱線を浴びて変色した瓦など約3000点を公開しています。
「これを見て下さい」共同代表の杉山耕太郎さん(68)が、布に大切にくるまれた額を出してくれました。
古ぼけた服がたたんで収められています。広げてもらうと名札が見え、制服だとわかりました。
広島で被爆し、命を落とした少年が8月6日に着ていたものでした。やけどの手当てをするため、ズボンはハサミで切り裂かれ、ところどころ焼け焦げた上着はぼろぼろになっていました。
これは当時、着ていた肌着です。白かった肌着が茶色くなっているのは血のあとです。
制服を着ていたのは、当時14歳の豊嶋長生さんです。豊嶋さんたち広島県立広島第二中学校の生徒は、300人以上が原爆の犠牲となり、慰霊碑が平和公園に建てられています。
74年前の8月6日、豊嶋さんたちは学徒動員にかり出され、爆心地からわずか数百メートルのあたりにいました。
火事が広がらないよう建物を壊して道幅を広げる「建物疎開」の作業を始めるため整列していた時、原爆がさく裂したそうです。
熱線と爆風で生徒の大半が即死し、その多くは遺骨の判別も、拾い集めもできない状況だったと伝えられています。
豊嶋さんは全身に大やけどを負いながらも川を泳いでわたり、友人たちと火災から逃れました。
その途中で探しに来た母親と出会い、奇跡的に自宅に戻れたそうです。
永町洋子さん:
「誰だかわからないくらい顔が腫れ上がっていました。思い出したくない、つらい記憶です」
東京 八王子市に住む妹の永町洋子さん(86)にとって、豊嶋さんは2つ違いの兄です。
しっかり者で成績もよく、3人の弟も可愛がっていたそうです。
母親が荷車にのせて連れ帰ってきた兄は、もはや兄とは思えない変わり果てた姿でした。
「水、水」と繰り返し、翌日、息を引き取りました。
直接の被爆はなかった永町さんは学校で救護活動に当たったそうです。
永町洋子さん:
「被爆した人たちは着てるものはボロボロ、肌だってみんな垂れ下がっていました。顔が真っ赤に腫れ上がって、誰だかわかりません。男性か女性かも分からないくらいでした。学校の講堂が人でいっぱいになって、教室もいっぱいになって、バタバタ亡くなっていきました。でも、その時は当たり前になっちゃって、何も考えられませんでしたね」
戦後、東京で暮らし始めた永町さん。次第に原爆の記憶は遠ざかり、兄を思い出すことも少なくなっていきました。
ところが平成3年に母親が亡くなり、遺品を整理していると、兄の制服が出てきたのです。
風呂敷に包まれていた制服はぼろぼろでしたが、それでもうらに布があてられ、ミシンで丁寧につながれていました。
永町さんは大切な長男を失った母親から、原爆や戦争への恨みつらみを一度も聞いたことがないといいます。
どんな思いで2度と返ることのない兄の服を縫っていたのか。そして、どんな思いで手元に置き続けていたのか。
永町さんは兄の制服そのものが、原爆の悲惨さや戦争で家族を奪われるつらさを語ってくれるのではないかと思うようになりました。
永町洋子さん:
「原爆の証拠ですから、立派な。兄は中学1年生でこんな姿で亡くなった。見てもらったら原爆ってどんなものか、考えることがあると思うんです」
永町さんが制服を寄贈したのが、市内に住む広島・長崎の被爆者たちが中心となって平成9年にオープンした「八王子平和・原爆資料館」です。原爆の悲惨さを感じる機会の少ない東京の人たちに、見てほしいと思ったそうです。
当初は多くの人が資料館を訪れましたが、20年あまりがたち、来館者は大きく減少しています。
共同代表の杉山耕太郎さん:
「制服を資料館の中にしまっておくことが豊嶋さんの思いに沿うことでしょうか。核兵器廃絶への道のりが険しさを増す中、原爆のことをもっと知ってもらいたいし、この制服にはまだまだ果たす役割があると思います」
「原爆の日」の前日、8月5日。豊嶋さんの制服は東京・町田市で開かれていた原爆を考える展示会の会場にありました。貸し出されたのです。
来てもらうのが難しいなら、人が集まるところに持ち出そう。資料館は制服を活用してくれそうな団体を探して、貸し出しを働きかけているのです。
会場には多くの子どもの姿がありました。あの制服を目にすると、子どもたちはメモを取る手を止め、豊嶋さんの写真と見比べていました。
原爆で亡くなった1人の少年の死を、現実として受け止めているように見えました。豊嶋さんの制服を前に、同じ14歳の女子中学生は言いました。
「写真だけでは感じない部分を感じました」
彼女が感じたその違いこそが、豊嶋さんの制服のもつ力なのではないでしょうか。
資料館には制服の貸し出し依頼が増えてきているそうで、この夏、首都圏各地をまわっています。一方で、劣化が進む不安もあります。杉山さんは「長く伝えていくためにも保存や展示の方法を考えたい」としています。
3年間の広島勤務を経て、東京に転勤して1年。原爆被害への関心について広島と、東京の間での温度差を感じていました。
そんな矢先、「東京にも原爆の資料館がある」との情報を聞いて、取材を始めました。
74年の時を超えて原爆のむごさを語り続ける制服。東京であの日の広島を知ることができる数少ない遺品です。一人でも多くの人に、見て、感じていただきたいです。