ぼん鐘を守った技師

ぼん鐘を守った技師(2023/08/20 大津局 デスク 森山睦雄)

戦時中、資源の不足を補い、軍需品に転用するために行われた金属製品の回収。

その対象には寺の釣り鐘「ぼん鐘」も含まれました。
当時、金属回収によって全国のぼん鐘の9割が失われたともいわれています。

一方、滋賀県では回収を免れ、現在まで受け継がれているぼん鐘があります。

なぜ回収を免れたのか。

残された公文書と関係者への取材からたどりました。

返ってきた“ぼん鐘”

滋賀県守山市にある少林寺。

江戸時代に鋳造されたというぼん鐘の音が、今も毎日、朝と夕に響きわたります。

地域の人に、長年、慣れ親しまれてきた存在です。

このぼん鐘も、戦時中、軍需品に転用するための金属資源として回収されました。

住職の甲斐道清さん(85歳)は、当時、地域の人とともにぼん鐘を盛大に送りだしたことを、今でも覚えています。

少林寺 甲斐道清 住職

少林寺 甲斐道清 住職
「出征される兵隊さんと同じように、国旗で斜めにタスキをして、装飾して。そして、みんなで万歳をしてぼん鐘が出て行ったことを、私は当時、本堂から見ていました」

しかし、その1週間ほどあと。

ぼん鐘は寺に戻ってきました。
甲斐さんは父親である先代の住職が喜んでいた様子が印象的だったと振り返ります。

少林寺 甲斐道清 住職
「私の父親が大変喜んで、まさに、こんなぼん鐘が帰ってくるという、考えてもみなかったことがあったということで、これは大変ありがたいなと、後々大事にしなければいかんなと、大いに喜んでおられたことは覚えております」

回収を免れた理由は

なぜ、ぼん鐘は返ってきたのか。

その手がかりは、滋賀県立公文書館がことし全面的に公開した文書にありました。

金属回収除外申請

「金属回収除外申請」と表紙に書かれたその文書。

つづられているのは、ぼん鐘を金属回収の対象から除外してほしい、そして地元で保存したいと願う地域からの申請です。

ぼん鐘の写真

申請の中には、ぼん鐘に刻まれた文字を写し取った拓本のほか、当時貴重だった写真が添えられているものもありました。

「格別の御詮議を以て保存御許可成り下されたく。願い奉り候」
「保存の儀、懇願候なり」
「檀信徒連署の上、謹みて嘆願奉り候」

いずれも、ことばを尽くして保存を訴えていました。

守山市の少林寺のぼん鐘も、一休さんで知られる一休禅師ゆかりの寺の歴史を伝えるものとして、地元の人たちが保存を願い出ていました。

そして、その多くで保存が認められていました。

ぼん鐘を守った技師

誰が保存を認め、ぼん鐘を守っていたのか。

文書を読み解いていくと、保存を認める書類はすべて1人の人物によって起案されていました。

その人物とは滋賀県職員の日名子元雄。

日名子元雄(画像提供 日名子大介氏)

日名子は大分県出身で、現在の神戸大学工学部の前身にあたる、神戸高等工業学校を卒業。
法隆寺や姫路城の修理工事に携わったあと、昭和14年7月、文化財建築の修理工事を指導する技師として、滋賀県に採用されました。

各地から寄せられた必死の訴えに、日名子はひとつひとつ向き合いました。

保存が認められた理由とは

しかし、当時は戦時下。

国のため金属回収に応じるのは当然という時代で、その流れに逆らうのは簡単ではありません。

なぜ保存を認めることができたのか。

ぼん鐘回収の実態について調べてきた滋賀県文化財保護課の課長補佐、井上優さんは、滋賀県が定めた金属類回収の実施要綱に手がかりがあると指摘します。

実施要綱では、寺のぼん鐘などは「全部即時回収」としていますが、国宝など一部のものは除外すると定められていました。

さらに、「由緒上特に保存の必要ありと県に於て認めたるもの」は、除外を認めることができると記されています。

日名子はこの規定を使って、保存を認めていたと井上さんは考えています。

実際、保存を許可する文書には「由緒を伝える上で重要な資料」などと、その理由が記されていました。

滋賀県文化財保護課 井上優 課長補佐

滋賀県文化財保護課 井上優 課長補佐
「ぼん鐘の銘文には寺の由緒や地域の歴史、ぼん鐘を寄進した先祖の名前が刻まれている。未来へ子々孫々へ引き継ぐべき村の歴史、地域の歴史がそこに凝縮されている。それを守りたいんだという気持ちを正面から受け止めて、やはりこれは由緒上大事だから、地域の歴史を示すものだから残しましょうという、まことにまっとうな判断を下したと言えるんだと思います」

異論にも毅然と対応

しかし、そうした日名子の行動には当時、異論が相次いでいたことも、文書に残されていました。

その一つは、滋賀県庁の内部からのものでした。

昭和18年3月、戦争遂行のための総動員を促進する役割を担う県の地方課長が、日名子が保存を認めた3つの寺について「風評香しからざる」=「評判がよくない」として、実地調査を求めてきたのです。

これに対して日名子は調査を行った上で、保存の決定を変更する理由はないと回答し、3つの寺のぼん鐘が守られました。

このほかにも、日名子を名指しして、再調査するよう求めるものもありました。
それでも日名子は、文化財を守る技師として毅然と対応し続けました。

県の調査では、日名子によって守られたぼん鐘は、少なくとも31にのぼることが分かりました。

滋賀県文化財保護課 井上優 課長補佐
「平和な時代に、文化財を守ることに異を唱える人は少ないと思います。しかし、戦争のために文化財を供出するというのも、時代のながれとしてはあったわけです。地方課という戦時協力をお目付けする課からにらまれたわけなので、ふつうは縮み上がるところだと思うんですけれども、文化財技師として客観的にみて、客観的な判断を答えられた。非常に勇気があります。誰が文化財を守る、何のために守る、誰のために守る。そういうことを立ち止まって考えてもらうきっかけにしてもらえるとありがたい」

日名子の思いとは

日名子はなぜそれほどまでに強い覚悟でぼん鐘を守ったのか。

そのヒントを探るため、京都府に住む、息子の大介さんを訪ねました。

日名子大介さん

大介さんは2016年にインターネットで井上さんが行った調査結果を見るまで、父親の戦時中の活動についてまったく知らなかったと明かしてくれました。

しかし、その活動を知り、日名子が残していた日記を改めて読み返してみたといいます。

日名子元雄の日記

日記には、日名子が昭和14年に滋賀県の文化財担当の技師として採用されたあと、県内各地の寺などに足を運んでいたことが記されていました。

そうした地域とのふれあいが、ぼん鐘の保存への思いにつながったのではないかと大介さんは考えるようになりました。

日名子大介さん
「ぼん鐘を鉄砲の弾や大砲に使うということは勘弁してくれよと。そういう地域の人の気持ちが乗り移ったのではないかなと。文化財を守るということを仕事にしている自分がなんとかしなければいかんちゃうか、そういうふうに考えたのかな」

文化財を守り続けた

晩年の日名子元雄(画像提供 日名子大介氏)

その後、日名子はどのような人生を歩んだのか。

大介さんによりますと、地方課長とのやりとりがあった直後、日名子は臨時召集を受け、兵士として九州に配属されます。

そして無事に復員し、滋賀県職員に復帰。
その後、文化庁の課長などを務めました。

昭和46年に文化庁を退職したあとも、文化財建築の修理工事に携わる技術者の待遇の改善や後継者の育成につなげようと、文化財建造物保存技術協会の設立に奔走しました。

平成6年、82歳でこの世を去るまで、文化財の保護に携わり続けた生涯でした。

“骨を埋める覚悟で”

強い覚悟でぼん鐘を守った日名子元雄。

取材の中で、息子の大介さんが話していた「骨を埋める覚悟でやりなさい」ということばが胸に残りました。

これは、昭和50年、大介さんが就職するときに父親からかけられたことばだといいます。

大介さんによりますと、日名子は神戸高等工業学校では近代建築を学んでいましたが、卒業後、不景気でなかなか職につけませんでした。
偶然、福岡県の神社の修理工事の助手になったことがきっかけで、文化財の仕事に関わることになりました。

最初は偶然でも、自分が行った場所で「骨を埋める覚悟でやる」というのは、日名子元雄の生き方そのものだったのかもしれないと感じました。

ぼん鐘を残したいという地域の申請と、それに応えて日名子が起案した許可文書は、ことし、すべての文書が作成から80年を経過したことから、滋賀県立公文書館で全面公開が始まりました。
公文書館のホームページでもみることができます。