芥川賞作家 “飾られた言葉”との闘い

芥川賞作家 “飾られた言葉”との闘い(2023/08/18 秋田局 記者 須川拓海)

「飾られた言葉を使へば民衆はいつの間にか誤った方角に導かれてしまふ」

太平洋戦争末期、新聞小説として連載される予定だった主人公のセリフは最後まで紙面に載ることはありませんでした。

小説を執筆したのは、第1回芥川賞作家の石川達三。

連載を打ち切られ、掲載されなかったゲラには、検閲との闘いの記録が残されていました。

(秋田放送局 記者 須川拓海)

太宰治らをおさえ第1回芥川賞作家に

秋田県横手市出身の社会派作家、石川達三。
30歳の時、みずからのブラジル移民の体験を基に書いた小説「蒼氓(そうぼう)」が、1935年に創設された「芥川賞」で太宰治らの作品をおさえ、第1回目の受賞作品となりました。

石川達三

しかし、受賞から3年後。

石川は小説『生きてゐる兵隊』で、日中戦争での旧日本軍の描写が「反戦的」などとして発売禁止の処分を受けます。

その後も石川は、社会問題に立ち向かう作品を書き続けました。

“幻”となった戦時下の連載小説

終戦直前、毎日新聞に連載していた小説「成瀬南平の行状」

知事に就任した幼なじみから、戦時中の県の施策について宣伝を担う「特別報道班長」に任命された男の物語です。

終戦1か月前の1945年7月14日。

1945年7月14日 毎日新聞

「B29来襲 宇都宮を焼爆」
「若き命を捧げて 敵を阻むこの一刻 今日も征く特攻機」
「決戦だより」

紙面が戦争にまつわる記事で埋め尽くされるなか、連載はひっそりと始まりました。

「成瀬南平の行状」第1回

食糧の配給が減る中で、県庁で高等官だけが食堂を使っていることを問題視し、弁当を持参するよう演説するなど、主人公・成瀬の歯にきぬ着せぬ物言いは、読者から人気だったといいます。

しかし…

連載が始まって2週間後の、7月29日。

1945年7月29日 毎日新聞

16回目の連載が載るはずだった紙面に「本日休載」の文字が。
理由が明かされることもないまま、連載は中止になりました。

終戦後に正式に打ち切りが発表され、「成瀬南平の行状」は“幻の連載小説”となりました。

ゲラに刻まれた闘いの跡

なぜ、小説は打ち切りとなったのか。その謎を解くカギがありました。

おととし、掲載されなかった小説の続きのゲラが見つかったのです。
石川は、打ち切りとなった16回目から先、24回目まで書き上げていました。

ゲラには、もともと書かれていた主人公のセリフを消して「議論」と書き直したり、原稿の一部を消してカタカナで「トル」と書きなぐった跡がありました。

ゲラの真ん中には赤い線が引かれ、紙面への掲載に向けて話の切れ目に悩んだ跡も見られました。

こうした修正か所がいくつも見つかり、いたるところに「検閲削」や「訂正」のはんこが押されていました。

石川達三の作品や、戦時中の検閲に詳しい東京大学大学院の河原理子特任教授は、戦時下の作家と検閲についてうかがい知れる貴重な資料だと指摘しています。

東京大学大学院 河原理子特任教授

東京大学大学院 河原理子特任教授
「検閲についての資料はなかなか残っておらず、どのように行われていたかも実は十分にわかっていない。当時の経緯を知るためには1つずつピースを埋めていくようにして手がかりを探していくしかないので、その過程が明らかになるという意味でも貴重な資料だ」

“飾られた言葉”

河原さんが特に注目したのが19回目。
主人公の成瀬が警察幹部に対して言ったセリフです。

「しきりに言葉を飾る、飾られた言葉をもつて内容を誤魔化す、ごま化す目的ではないのだが、言葉を飾るから内容は自然にごま化される。宮庁や軍部がさういふ飾られた言葉を使へば民衆はいつの間にか誤つた方角に導かれてしまふ。これこそ日本における報道宣伝の通弊であり、そして今や国家を危ふくするもんだ」

「戦況を『飾られた言葉』でごまかすべきではない」
小説とはいえ、戦時下の報道姿勢に立ち向かう言葉がつづられていました。

ただ、最後の「国家を危うくするもんだ」という表現には、吹き出しをつけて「危うくする場合もあるかもしれん」と語尾を弱めるよう書き直した跡もありました。

さらにゲラにはこんなセリフも。

「近頃は国民の方が先廻りして新聞記事の裏を読む、戦況ニュースを信用しない。これが即ち流言を産む一つの原因になつてゐるぢやないですか。日本中の心あるものが真相を知らせよと言ひつづけているのは、別の言ひ方をすれば(言葉を飾らないでもらひたい)といふことぢやないですか」

しかし、このセリフには、大きく黒い×の印が。
石川の思いは、紙面に載ることはありませんでした。

それでも見つかったゲラからは、ギリギリまで読者に作品を届けようと、検閲とあらがった石川の思いが感じられると河原さんは指摘します。

東京大学大学院 河原理子特任教授
「語尾を弱めたとしても、飾られた言葉でごまかす報道宣伝自体がダメなんだという主張は変わらず、石川達三が検閲の意向に即して直そうとしたようには思えない。小説の形に仕立てておもしろい読み物にしつつ、自分が言いたいことや主張を丸めて筆を曲げる意思は感じられない。自分の考えをあくまで小説として載せようと格闘したということだと思う」

最後の最後にぶちまけた

石川達三の長男で今回、小説のゲラを図書館に寄贈した旺(さかえ)さん。
戦後、当時の検閲の際の取り調べについて、熱心に話す父親の姿を覚えていました。

長男の石川旺さん

達三の長男・石川旺さん
「終戦の2~3日前に長時間の取り調べを受けて『最後の最後に言いたいこと全部言ってやろうと思って、全部その取り調べの刑事に向かってぶちまけてやったんだ』っていうことを言っていました。すると、刑事が黙って聞いて『わかりましたどうぞお帰りください。あなたは私が今まで話した中で一番の人格者でした』と言われたという話を気に入っていたようで、何回も聞きました」

毎日新聞の社史には、連載当初から内務省から注意があり、5回目には厳重な警告を受けたと記録されています。官僚への侮辱だというのがその理由です。

石川は屈することなくしばらく掲載を続けましたが、丸2日間、警視庁と隣の内務省の情報局を行ったり来たりして取り調べを受けたと後に記しています。

息子の旺さんは、石川はすでに日本の敗戦を意識し、思いの丈を文章にしたためていたのではないかと感じています。

石川旺さん
「これはもう書き残すしかないっていう気持ちがあったんでしょうね。「成瀬南平の行状」の前にも“遺書”という作品も書くなど、みずからの主張を届けたい気持ちが強かったと思います」

未来に残す石川の言葉

小説の主人公の成瀬は、戦争について国民に本当のことを知らせたうえで人心を集め、みんなで戦うことが必要だと主張。

不都合な真実を「飾られた言葉」で塗り固めることで、物事の本質が見えなくなることは避けなければならない。

世に出ることのなかったゲラの中で、石川は繰り返し訴えていました。

1982年 NHK番組に出演する石川達三

息子の旺さんは、戦時下で書かれたこのゲラを、今を生きる私たちにも役立ててほしいと考えています。

石川旺さん
「やっぱりすごいなと思いますね、下手したら命に関わった時代ですから」

「この次に言論に対する迫害が起きたときに、何がどういうふうに進んでいくのか、見当がつくだろうと思うし、そういうものに対してきぜんとした態度をとれるかどうか、このゲラはそのための手がかりを残すという意義もあると思っています。この先、とんでもない言論弾圧の時代が来るかもしれないので、そういう時のために役立ててほしい」