極秘だった毒ガス弾工場 跡地が伝える戦争の負の歴史

極秘だった毒ガス弾工場 跡地が伝える戦争の負の歴史(2023/08/15 長崎局 カメラマン 野口真郷)

「ここで毒ガス弾を作りよるということは一切口外しちゃいけん」

太平洋戦争中、極秘で“毒ガス弾”を製造していた工場が北九州市にありました。
国際条約で使用が禁止されていた“毒ガス弾”
その存在は長く伏せられ、資料はほとんど残っていません。

終戦から78年。当時の製造工場の建物から、戦争の負の歴史をたどりました。
(長崎放送局 カメラマン 野口真郷)

毒ガス弾工場跡が自衛隊の訓練場に

北九州市小倉南区にある陸上自衛隊小倉駐屯地の曽根訓練場。

周りは住宅街や田んぼに囲まれていますが、かつてここに“毒ガス弾”の製造工場がありました。

ふだんは立ち入りが禁止されていますが、今回、特別に施設内での撮影が許可されました。

陸上自衛隊 小倉駐屯地曽根訓練場

中に入るとすぐにコンクリート製の建物が見えてきます。
東京第二陸軍造兵廠、曽根製造所跡です。

東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所跡

日中戦争が始まった昭和12年に建設された曽根製造所。
約5万坪の敷地に7棟の建物や円筒形のガス排気塔が、当時のまま残されています。

この工場では、皮膚をただれさせるイペリットや、窒息性のあるホスゲンなどの毒ガスを砲弾に詰める作業が行われていました。

曽根製造所跡の内部

終戦までの8年間で製造された毒ガス弾の数は、およそ150万発とも言われています。日中戦争で使用されました。

当時作られていた毒ガス弾(大久野島毒ガス資料館所蔵)

終戦とともに工場は閉鎖され、建物は戦後、陸上自衛隊の市街地戦を想定した訓練に使われていました。現在は倒壊のおそれがあるため、中に入ることができません。

毒ガス弾製造所ならではの特徴も

残された建物に毒ガス弾工場ならではの特徴が見られるといいます。
それが、窓です。

考古学が専門で、国内の戦争遺跡に詳しく、曽根製造所について調査している西南学院大学の伊藤慎二教授に解説してもらいました。

西南学院大学 伊藤慎二教授

西南学院大学 伊藤慎二教授
「窓が大変大きいですよね。通気・換気が、意識されていたことがよくわかります」

窓枠の高さは約3メートル。それでも工場では、たびたびガス漏れ事故が起きていて、けが人が絶えなかったという証言が残されています。

また、ほかにも痕跡が残されていました。
それがこちら。

完成した砲弾を保管していた建物の前に盛られた土、土塁に特徴がありました。

西南学院大学 伊藤慎二教授
「完成した砲弾が万が一の事故で爆発した場合に、隣の建物へ爆風が及ぶのを防ぐためにこのような土塁を建設していたというふうに考えられます」

伊藤教授は、曽根製造所跡について、戦争中の兵器工場の全体像を目で見て確認することができる貴重な戦争遺跡だと考えています。

西南学院大学 伊藤慎二教授
「主要な建物が現存するばかりでなく、周囲の境界の塀、あるいは門までこれほどの保存状態で残っている例は国内でもほかにない大変貴重な戦争遺跡かと思います」

今回の取材では、曽根製造所跡を様々な角度から撮影し、3Dモデルを作成しました。

毒ガス製造の後遺症残る人も…

工場では地元の人を中心に1000人以上が働いていました。
場内には常に化学物質の臭いが充満し、無防備では中に入れませんでした。

作業員はゴム製の防護服とガスマスクを着用していましたが、それでも化学物質が隙間から入るなどして、けがをする人が大勢いたということです。

残虐な毒ガス兵器は、製造に関わった人たちの体をもむしばんだのです。

当時使われていた防護服(大久野島毒ガス資料館所蔵)

作業員の多くはすでに亡くなっていて、工場の実態をさらに知ることは難しくなっています。

ただ、1991年に放送されたNHKの番組には当時、曽根製造所で働いていた人たちの証言が記録されていました。

毒ガスの影響を説明する畠山治郎さん

畠山治郎さんは工場が開設された昭和12年から終戦までの8年間、毒ガスを砲弾に詰める作業をしていました。

毒ガスによる後遺症が残り、戦後は慢性的な気管支炎に苦しみました。

畠山治郎さん(1991年の番組より)
「これは本当にガスの、イペリット(毒ガス)なんですよ。白いのは水泡のできとった跡です。しみになっとる。他のところもガスで色が変色しとるでしょう」

畠山さんが働いていた建物ではガス漏れ事故が頻繁に起こっていましたが、それが当たり前に感じていたと言います。

畠山治郎さん

畠山治郎さん(1991年の番組より)
「せきが出る、のどが痛くなる、目が赤く充血するくらいで直接苦痛を感じんから何とも思っていなかったですよ」
「まあ私あたりはこうして元気でおって、友達の中には早く亡くなった人もおる」

また、吉岡成夫さんは工場の事務所で働いていました。

毒ガス弾の製造については守秘義務があり、家族にすら秘密にするよう厳命されていたと言います。

吉岡成夫さん

吉岡成夫さん(1991年の番組より)
「毒ガス弾を製造しよるということは一切口外したらいけんという誓約書を入れてあるからね。戦時中はもちろん戦後もこういうことは一切お互い言うまいぞということで別れとるんやから」

「恥部やからこれは。条約に反して作り寄ったっちゅう恥部でしょ。だから徹底的に証拠隠滅してますよ」

2人はすでに亡くなっていますが、当時の状況がうかがえる貴重な証言です。

朽ちゆく戦争遺跡の行方

工場が建設されてから86年。
建物は、外壁が剥がれるなど老朽化が進んでいます。

管理する陸上自衛隊小倉駐屯地は倒壊のおそれがあるとして、上級部隊に解体を要望しています。

建物は老朽化が進む…

一方で、曽根製造所を調査している伊藤教授は保存するべきだと訴えています。

西南学院大学 伊藤慎二教授

西南学院大学 伊藤慎二教授
「平和を守っていくためには、戦争の時代とはどういうものだったか直接考える材料が必要です。もう直接戦争を体験した世代の方が残念ながら多くは亡くなりつつある現在、戦争遺跡の価値というのは、その部分を多少なりとも補う大変社会的に重要な意義があると思います」

また、戦争遺跡の調査・保存に取り組む市民団体、全国戦争遺跡保存ネットワーク共同代表の出原恵三さんはこう話しています。

全国戦争遺跡保存ネットワーク共同代表 出原恵三さん
「工場跡は、貴重な歴史の証言者であり国民の財産でもあります。国が積極的に保存し負の歴史に真摯(しんし)に向き合うべきだと思います」

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が長期化しています。
戦争は私たち日本人にとっても決してひと事ではないと感じます。

極秘だった“毒ガス弾”を製造していた負の歴史を今に伝える工場跡。
戦争の記憶を後生に伝えるためにも、戦争遺跡をどうしていくべきか、今を生きる私たちも考える必要があると思います。