アナウンサーたちの戦争

アナウンサーたちの戦争(2023/08/14 NHKスペシャル取材班)

太平洋戦争中、日本軍の戦いを支えたもう一つの戦い。それは、ラジオ放送でした。

ナチスのプロパガンダにならい「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させました。

当時の日本放送協会のアナウンサーたちはどう戦争と関わってきたのか、当事者の証言や記録からたどりました。

(NHKスペシャル取材班)

海外にも広がっていった日本のラジオ放送

戦前、戦中と日本の海外勢力圏拡大に伴って、ラジオの放送網も海外に広がっていきました。

太平洋戦争より前、1927年には、朝鮮の京城放送局が放送を開始。
1928年には、台湾の台北放送局が放送を始めました。
そのほか、満州や中国にも、放送局を開設していきます。

太平洋戦争が始まり、日本が南方に勢力圏を広げていくと、フィリピン、シンガポール、インドネシア、ミャンマーなどにも次々と放送局を開設。
そこで放送を支え“電波戦”を行っていたのが、当時の日本放送協会の職員たちでした。

1941年から1945年にかけて、放送職や技術職合わせて302人の職員が南方に派遣。

第三次南方派遣職員 1942年

中には、日本のスポーツ中継の基礎を築いた松内則三アナウンサーや、ベルリン五輪の「前畑頑張れ」の実況で知られる河西三省アナウンサーなど、有名アナウンサーも数多く含まれていました。

戦時中の日本放送協会は…

戦前の日本放送協会には取材を専門とする記者職がなく、主に同盟通信社から提供されるニュース原稿を話し言葉に書き直してアナウンサーが読んでいました。「自主取材に支えられた放送ジャーナリズム」という考え方が、当時の放送協会にはありませんでした。

もともと明治憲法下で「表現の自由」は大幅な制限を受けていましたが、特に1940年12月の情報局設置後は、言論・報道への指導・取締りが一層強化され、放送協会は国家の宣伝を担うことになります。ニュース原稿を提供する同盟通信社自体が、国策推進のために設立された通信社でした。

当時の放送協会は今のNHKよりずっと小さくシンプルな組織でした。アナウンサーは原稿を読むだけでなく、前線取材や番組企画など放送全般に関わり、外地や南方の放送局の多くでは、赴任したアナウンサー・元アナウンサーが運営や放送を主導しました。

ラジオで現地住民を“日本化”

外地・南方の放送局では、そこに住む日本人向けの放送のほか、現地の言葉による放送も行われていました。

ビルマ・ラングーン放送局

なじみやすいラジオ放送を使って、日本文化や日本語を広めて現地住民の“日本化”を進め、日本を中心とする“大東亜共栄圏構想”を進めようとしたのです。

マニラ放送局スタジオ

フィリピンでは、音楽好きの国民性にあわせ、音楽番組を数多く編成。

『さくらさくら』や『荒城の月』が、現地のラジオで流れたほか、日本語のコンテストを開くなどして、日本語の普及にも努めました。

マニラ放送局に派遣された米良忠麿アナウンサーは、家族に送った手紙の中にフィリピンでの日本語教育の様子をつづっていました。

米良忠麿アナウンサー

1943年8月6日
和子殿(娘)

フィリッピンの子供達もよく勉強してゐます。
今月の二十五日には日本語の競演があります。
ラジオでよく日本語の出来る子供何人かにお話しをさせてその中でもよくお話の出来る子供には御褒美が出ます。

フィリピンでの日本語教育

1943年8月30日
譲殿(息子)和子殿(娘)

今月二十五日 日本語週間第一日に日本語の上手な選手を各区から出させて競争させました。
みんな上手で驚く位です。
一年位の勉強でこんなに上手にならうとは思はれないほどです。
十二才の男の子も賞に入りました。
此の少年は新聞社で募集した標語に一等当選した少年です。
その標語は「アジアの言葉、日本語」といふのです。

ラジオ体操を積極利用

“日本化”を進める中で、外地・南方各地の放送局が積極的に利用したのが、ラジオ体操でした。

外地・南方でのラジオ体操

一つの号令の下で数多くの国民が同じ動きをするラジオ体操は、当時、共同性や民族精神を育むものと考えられていました。

南方各地で普及するラジオ体操は、日本の支配地拡大の象徴とみなされました。

1942年、昭南(今のシンガポール)に派遣された放送職の松田久治は、任地に向かう船中でラジオ体操の準備を始めたと、戦後、職員たちの手記をまとめた冊子に記しています。

<『南十字星の下で~南方放送派遣者の思い出~』NHK南放会編>
(昭南放送局長の)河西三省氏と今後の我々の(昭南局での)仕事について話し合い、先ずラジオ体操で行こう、体操指導は身体の良い松田君に頼むと言われ、それから船の中でみんなの協力を得て練習が始められた。

敵軍を混乱させた“謀略放送”

当時、南方の放送局はすべて軍の管轄下におかれていて、ラジオ放送を使って日本軍の戦闘を支援することもありました。
偽のニュースによって敵軍を混乱させる“謀略放送”です。
砲弾より戦闘機より速く遠くへ届く電波、「ラジオは声の兵器」とうたわれました。

オランダ領東インド(蘭印・今のインドネシア)のジャワ島への陸軍進攻にあたって、“謀略放送”による作戦支援を主導したのは、アナウンサーの長笠原栄風でした。

“謀略放送”はサイゴンからジャワに向けて

長笠原は、日本軍が進駐したフランス領インドシナ(仏印)のサイゴン放送局からジャワ島のラジオ局と同じ波長で放送を出して、地元放送局になりすまし、偽のニュースを流しました。

「日本軍の兵力は10万に達し、蘭印軍は苦戦に陥っている」

長笠原らは、日本軍がジャワ島上陸を開始してから2日後の1942年3月3日。
ラジオでそう伝えました。
実際の日本兵は3月上旬に上陸した数で5万5000人。
戦力を大きく上回る嘘の情報を伝え、蘭印軍を混乱させる“電波戦”を仕掛けたのです。

8月5日。
日本軍がジャワ島の北岸から上陸したときには「ジャワ島南岸から日本軍が上陸した」逆側から日本軍が上陸したとラジオで繰り返し伝えました。

慌てた蘭印軍は、自国の船を日本軍の上陸部隊と誤認。
軍事上の拠点バンドンにあった虎の子の機械化砲兵隊を、日本軍のいない南岸に向かわせることになりました。

8月8日。
蘭印軍の一部が停戦の申し入れをしたと知った長笠原は、ダメ押しの一手を講じます。
あたかも蘭印軍が全面降伏したかのように放送し、日本軍の指示に従うよう伝えたのです。
オランダ領東インドの軍、行政、民衆に敗戦感を醸成し、今後の交渉を有利に進める目的もありました。
長笠原たちの放送を信じて実際に戦闘を停止し、日本軍の指示を待つ蘭印軍の部隊が多数出ました。

8月9日。
蘭印軍は正式に降伏しました。
長笠原は戦後、自分たちの偽ニュースによってもたらされた戦果を語っています。

<長笠原栄風 インタビュー>
後日談なんですがね。このジャワに入った日本軍の謀略の将校がいるんですけど。
開戦とともに蘭印軍の捕虜になってね、捕虜収容所に入れられたんですよ。
それが、蘭印軍の無条件降伏が決まる前に、僕らのほうで無条件降伏の今、会議中だということを放送し始めた時にね、収容所から出されちまったんですよ。
自分たちは無条件降伏になるらしいから、あんたも出てくれと。
帰ってくれと言うんで出されて。

捕虜として捕まっていた将校が、正式に降伏が決定する前に、嘘の降伏情報を信じた敵軍によって解放されたと言うのです。

また、長笠原のインタビューによると、解放された将校は途中で出くわした敵軍の武装解除まで行ったと言います。

南方軍総司令部の「対ジャワ謀略放送実施経過報告書」には、謀略放送がいかに敵軍の全面降伏を効果的に導いたか、放送の詳細と成果が詳しく記述されています。

謀略放送のメンバーには、戦後ニュースキャスターの草分けとなる今福祝アナウンサーも加わっていました。

南方放送局の最後

開戦当初は計画どおり進んだ“電波戦”。
しかし、戦況悪化にともなって、外地・南方の放送局も戦火にさらされるようになっていきます。

1944年10月。
米軍はフィリピン・レイテ島に上陸、ルソン島のマニラにも危機が迫ります。

マニラ放送局の米良は、現地に住む大勢の日本人のために最後まで残って放送を続けました。
家族との別れも覚悟し、手紙で伝えています。

1944年10月30日
和子殿(娘)

遂に比律賓(フィリピン)が日米の決戦場になりました。
レーテ島では激しい戦さが行はれてゐます。
航空隊の勇士は燃料を減らして爆弾を積んで行く。
燃料を減らすといふことは往きだけで帰りの燃料は持って行かないといふ意味です。
生きて帰ることは最初から考へてゐないのです。
敵の爆撃機もどんどん来るやうになるだらう。
おしまひにはマニラの町も盲爆することだらう。

1944年12月20日の米良アナウンサーの手紙

1944年12月20日
鶴殿(妻)

子供達のことを頼みます
或はこれが最後の便りになるかも知れぬ

譲(息子)薫(息子)和子(娘)愛子(娘)殿

お国の為に役に立つ人間になって下さい

1945年2月3日。
米軍はマニラ市内に突入。
米良たち放送局員は、直前まで放送を続け、マニラ東方の山岳地帯に脱出。
しかし、米軍の攻撃や飢えやマラリアでメンバーは次々と亡くなり、米良も死亡。
17人いたマニラ局残留部隊のうち、生き残ったのは1人だけでした。

反省しなきゃならん

長笠原とともにジャワに向けた謀略放送に参加したニュース係の柳沢恭雄は、戦後、自分たちの行った“謀略放送”について、次のように振り返っています。

<柳沢恭雄 インタビュー>
ジャワ派遣軍の参謀長が、放送は、2個師団にも3個師団にも相当する、役に立ったと言ったそうです。
デマ放送に戦況は大いに助けられた。
どこそこへ上陸したなんていうデマのニュース。
デマるわけですよ。デマる。
今で言うとプロジェクトチームができましてね、全員があの戦争協力で、走っているわけです。
しかし、じゃあもっと考えたらこの謀略放送はお前良かったと思うか悪かったと思うかと問われると、そりゃ悪いことしたと思う。私は。
あとになってみれば、反省しなきゃならん。
自分史の戦争の中で犯罪的だった。

“電波戦”の大きな戦果とされた嘘のニュース。
そして国民を欺いた偽りの大本営発表。

謀略放送に参加した柳沢や今福は、戦後、自分たちの戦時中の放送を反省し「真実の報道」の確立に尽力しました。

戦後の日本放送協会は…

1946年4月、放送記者制度が創設され、公募によってNHK放送記者第1期生が誕生します。NHKという略称もこの頃登場しました。さらに、表現の自由を保障する日本国憲法の下で、1950年に放送法が施行。みずからの責任でニュースや番組の取材・制作・編集を行い、自主・自律を堅持する放送局としてNHK・日本放送協会は再出発します。

柳沢は、戦前の日本放送協会にはなかった放送記者制度の開始を主導。
今福はテレビニュースキャスターの草分けとして、ニュースの信頼を大切に、長年、伝え続けました。