犠牲者の名前を記し続けて…「書」でつなぐ平和への思い

犠牲者の名前を記し続けて…「書」でつなぐ平和への思い(2023/08/09 長崎局カメラマン 奥瀬拓也)

「原爆死没者名簿」。78年前のきょう、長崎に投下された原爆の犠牲者一人ひとりの名前が生きた証しとして書き記されているものです。毎年、この名簿に新たに名前を書き加えていく作業を担っているひとりの書道家がいます。彼女は、被爆者の思いを引き継ごうと20年以上にわたって筆をとってきました。(長崎放送局カメラマン 奥瀬拓也)

原爆死没者名簿に名前を記し続けて…

原爆死没者名簿

長崎に投下された原爆の犠牲者の名前を記した「原爆死没者名簿」。ことしは、この1年に亡くなった被爆者など3322人の名前が名簿に加えられました。

長崎に原爆が落とされてから78年。原爆死没者名簿に記された犠牲者の数は19万5704人(長崎で被爆した方に加え広島で被爆して長崎で亡くなった方も一部含む )となりました。

この名簿に名前を記す「筆耕」を20年以上前から続けているのが、書道家の森田孝子さん(75)です。

森田孝子さん

森田さん
「被爆者の方が生きてこられた証しなのでそのお名前を丁寧に記帳することによってみ霊が安らかにお眠りになったらいいなと思いながら書いています」

森田さんが筆耕を始めたのは、知人に書道の腕を買われたのがきっかけでした。

自身が被爆2世の森田さん。子どものころから原爆の話を聞いて育ちましたが、それまで平和活動に特別な興味を持つことはなかったといいます。

しかし筆耕を始めてみると、毎年2000人を超える被爆者が亡くなり、その数が年々増えていく現実を目の当たりにしました。

森田さん
「筆耕を通して犠牲者の数を感じ取ってきました。犠牲者の多さに戸惑いながらも、これが現実なんだと。そうして徐々に被爆2世である自分にもできることはないかと考えるようになり、得意の書で伝えていきたいと思うようになりました」

書で被爆者の声を伝える

筆耕を通して平和への思いが芽生えた森田さんは、被爆者から直接話を聞き、体験やことばを書で作品に残す活動を始めました。

以下が森田さんの作品です。被爆者の話の内容を書の作品として表現しています。

「“平和とは”人の痛みがわかる心を持つ事です」下平作江さんのことばを書いた作品) 

「布団でくるんだ六本の足むし返す暑さの中繰り返される自葬…菊一本でいいあの三人に供えたい反核永劫に語り継いでいかんばね」(原田英子さんのことばを書いた作品)

森田さんは、被爆者のことばを作品として残す意義について次のように話します。

森田さん
「被爆者の方がいなくなられる日がやがてはやってくるわけですよね。やはり実際に被爆を体験した方のお話とそうでない人の話は全然違うと思うんです。被爆者の方の大切な言葉を頂いて、しっかりと伝えていかなければと思っています」

声に出せなかった思いに触れて

森田さんが作品作りをする中で活動への気持ちをいっそう強くする出会いがありました。

森田さんが先生を務める書道教室に通う、宮崎幸子さん、93歳です。宮崎さんは15歳のとき爆心地から約1.2キロ離れた動員先の兵器工場で被爆しました。

命は助かったものの、幼なじみで初恋の人「昭ちゃん」を亡くしたといいます。宮崎さんが目にしたのは、ひどいやけどを負って誰だかも判別することができない遺体。身につけていた衣服に名前が記されていたことから、「昭ちゃん」だとわかったといいます。

空き地で遺体を火葬するとき、昭ちゃんの父親は「俺も一緒に行く」と言って火の中に飛び込もうとしたそうです。宮崎さんは、その時に抱いた悲しみや恐怖を抱いたまま、今日まで生きてきたのだといいます

宮崎幸子さん

宮崎さん
「原爆でやけどして、また自分たちで火葬してだから2回も昭ちゃんを焼いたんだよね。そう思うと手が震えて思い出すと涙が出てどうしようもなくてね。天国で家族の人と会えたかなぁ、顔の傷は治ったかなぁ、といつも思うんです」

ある日、森田さんは、もし話してもらえるのならと、宮崎さんの経験を作品として書かせてほしいとお願いしました。

被爆者に対するいわれのない差別を恐れて、自分の体験を人に話したことはなかったという宮崎さん。ずっと抱え続けてきた思いを手紙に記し、その思いを初めて打ち明けました。

宮崎さんが森田さんに送った手紙

宮崎さん
「母親からも、一生のことやから原爆のことは絶対に言ったらいかんと言われてきました。だから原爆の話は子どもにもしませんでした。でも話したい気持ちは心の中にずっとあったんですよ。だからこうして森田先生に話してよかったと思います。少し胸が開けました」

森田さんは手紙に込められた思いを表現するべく、何度も何度も手紙を読み返し、15歳だった当時から消えない宮崎さんの悲しみを作品に込めました。

宮崎さんのことばを書いた作品

「昭君…火傷が酷かったね空地で昭ちゃんを火葬する時お父さんが「昭雄一人で行かせん」と火の中へ飛び込もうとして大変でした悲しくて 怖くて 逃げて帰りました今でもあの時の事を現わす言葉がみつかりません」

誰にも語ることもできない、心の奥底に抱えた被爆者の思いに触れた森田さん。こうした思いをもっと自分が世に伝えていかなくてはという気持ちを強くしたといいます。

森田さん
「今まで語りたくても語れなかった、子どもにも話せなかった被爆の重さを感じました。そういう方の言葉を私が書で代弁できたらな、表すことができたらなと。これからは被爆者の方から私たち2世そしてさらに次の世代へとつないでいかなければならないと強く感じています」

次の世代につなぐ

近年、被爆者の高齢化が叫ばれています。長崎県では市と県が交付する被爆者健康手帳を持つ人が初めて3万人を下回りました。

森田さんも原爆死没者名簿の筆耕を通じて「被爆者なき時代」が近づいていると痛切に感じています。

森田さん
「最初書いていた頃は70代や80代が多かった犠牲者の年齢が、いまでは90代の人が増えていて。被爆者の高齢化は年々強く感じるようになって、いまがまさに“継承のとき”だと思います」

平和への思いを次の世代に継承したい。森田さんが現在取り組んでいるのが、学生たちと一緒に戦争や平和について考えること。そして考えたことを自分のことばで書道の作品に表現することです。

森田さん
「継承ということばはよく聞くけど、その方法はいろんなものがあると思います。私はこれまで書で伝えてきたし、表現することが子どもたちにとって平和について考える入り口になればと思います。表現することを通して、平和とは何か、戦争とは何かを考えて、書道に限らず自分たちの可能性を広げてほしいです」

森田さんの思いを理解した学生たちは、それぞれが思い思いに考えた平和のことばを、一文字ずつ、丁寧に記していきます。

高校生
「戦争の悲惨さとか人々のつらい記憶をこの平和活動を通していろんな人に伝えていく活動をしていけたらいいなという思いで『未来に残す 戦争の記憶』という文字を書きました」

大学生
「ウクライナなど世界中で争いが起きている現状のことを考えました。いつか平和になるじゃなくて“今”平和な世界になればいいなと思って。それも長崎から広げていきたいと思ったので『平和を繋げる、いま、長崎から』と表現しました」

被爆者からたくさんの思いを受け取った自分が、しっかり次につなぎたい。森田さんが書でつなぐ、平和のバトンです。

森田さん
「子どもたちも戦争や原爆の醜さ怖さをしっかり受け止めてはいると思うんですよ。それを実際に伝えていきましょうと、彼らに働きかけるのは私たち2世や被爆者の役割だと思います。いま以上に平和や原爆の悲惨さを考えてもらって、未来につなげていってもらいたいな、それぞれが活躍してもらいたいなって思います。その橋渡しを私が少しでもできたらいいなと思っています」