澤地久枝が若者に語った戦争

澤地久枝が若者に語った戦争(2023/08/08 社会部 記者 富田良)

78年前、14歳だった少女は戦争について何も知らなかった。

ノンフィクション作家の澤地久枝さん(92)。

これまで戦争をテーマにした作品などを数多く執筆してきた。

公式記録には残されていない戦死者一人ひとりの人生を丹念に調べ、戦争が人々に何をもたらしたのか伝えてきた。

その澤地さんのもとをこの夏、高校生たちが訪ねた。

そこで語ったことばとは。

(社会部 記者 富田良)

澤地久枝 戦争を知らない世代へのメッセージ

澤地さんが、高校生の訪問を受けたのは7月中旬。

麻布高校の哲学研究会などに所属する生徒5人が、戦争について深く学ぶために戦争を経験した澤地さんの話を聞きたいと、都内にある自宅を訪ねてきた。

「どうしたって硬くなると思うけど硬くならないでね」澤地さんはそう優しく声をかけて、生徒たちを招き入れた。

「戦争中の私は、何も分かっていなかった」

澤地久枝さん

澤地さんが最初に語ったのは、高校生たちと同じ10代だったときの体験。

戦時中は旧満州、現在の中国東北部にある女学校に通っていて、戦局について学校内で伝える役割を任されていたという。

澤地久枝さん
「非常に熱心でしたね。私は『時局係』といって、毎朝の朝礼のときに、戦っている日本がどういうことをやったかということを報告するんですよ。だけど真実は伝えられていないのね、今思うとね。新聞報道のままに話をするんだけど、私はこの戦はいい戦で、いい戦だと思った自分の判断がどこからきているのか自分では分からないのね。だけどいい戦で毎日勝っている、そういう報告をしていたんです。私はね、戦争中の自分のことを考えると本当にばかな女の子だったということしかないんです。戦争というものがよく分からないし知らないし、だけど戦争で死ななきゃならないと頭から思っていた」

終戦を迎えたのは14歳の時。

その日のことを鮮明に覚えていた。

澤地さん
「その日は動員された部隊の解散式に参加するために神社にいたので、玉音放送も聞いていなかったんです。解散式が終わって大通りを歩いていると、中国の人たちから『日本、負けた』って片言の日本語で言われたんです。それで一緒に歩いていた兵長に『日本が負けたって言ってます』と聞いたら、『デマにまどわされてはいけないという意味の戦陣訓があるだろう』と言われ、私も『そうか』と納得したんです。そして家に帰ると父がいて、『戦争は終わったよ』と言われたんです。そのとき、あんなに死ななきゃならない、この戦に勝たなきゃいけないと思っていたのに、何の反応もしなかった。自分でもよく理解できなかったんです。14歳というのは物事を分かっていると自分では思っていたけど、今振り返ると何も分かっていなかったと思う」

「ミッドウェー海戦」 7年かけて記録や資料をたどる

軍国主義のもと、戦争が何をもたらすのか理解していなかったという澤地さん。

戦後、出版社の編集者を経て作家となり、戦争とは何かを問いかける作品を執筆するようになった。

その一冊が、1986年に発刊した「記録 ミッドウェー海戦」。

真珠湾攻撃を皮切りに勢力を広げていった日本軍が1942年6月、アメリカ軍に大敗を喫したミッドウェー海戦。

航空母艦4隻などを失い、太平洋戦争の戦局が転換するきっかけとなった。

およそ40年前、この海戦について調べようとした澤地さんは、戦死者の人数すら正確にまとめられていない事実に直面したことを話した。

澤地さん
「ミッドウェー海戦のようによく知られている戦争ならばもっと資料も豊富にまとまっているだろうと思っていたんですが、厚生省に行くと『ここにはありません、自治体にいけばあるんじゃないですか』と言われて。自治体に問い合わせをすると、その地域の出身者が亡くなったという記録があるだけで全体はまとめていなかった。それで私は背中を向けて『やめます』ってことは言えなかった。ともかく何人死んだっていうのをちゃんと調べようと思った。逃げられなかったですね」

澤地さんの資料庫

澤地さんは記録や資料をたどり、7年もの歳月をかけて日米双方の戦死者3418人の名前や階級を特定。

残された家族へのアンケートやインタビューを通じて、一人ひとりにあった人生を描いた。

その作業は大きな痛みを伴うものだったという。

澤地さん
「3500人近い人の消息を求めて、むごい仕事をしたのかもしれないという気持ちはありますよ。だってもう終わったことだとみんな思っているのに、アンケートには一人っ子だったとか兄弟は何人とか全部具体的に書いてくれと言っているわけで、一回静まっていたものをもう一回かき回されるようなことを聞いたわけね。アンケートが返ってくると、『この人はこんな家族の中で出て行って死んだのか』って思って、自分の心の中に嵐が起きました。でも知らないからできた、知らないことはちゃんと答えてほしいじゃないですか。だから答えてほしいと思って最後まで諦めないでこの本ができたんですよ」

作品を読んで変わったという若者は

菊池寛賞を受賞するなど「記録 ミッドウェー海戦」は高く評価され、37年のときを経てことし復刊した。

澤地さんを訪ねた高校生のなかには、復刊版を読んで戦死者に対する向き合い方が変わったという生徒もいた。

藤田龍起さん

2年生の藤田龍起さん。

海軍の潜水艦の乗組員だった曽祖父は、1945年にマリアナ沖で戦死した。

藤田龍起さんの曽祖父(写真左奥)

遺骨や遺品は戻らず、亡くなった日時や経緯なども分かっていないため、家族から話を聞くことはほとんどなかったという。

藤田さんは、戦争を経験していない世代が何をすべきか、澤地さんに尋ねた。

藤田龍起さん
「戦後78年たって戦争の記憶も薄れつつある中で、戦死者一人ひとりには家族がいて人生があって、1人の人間なんだということを僕は強く実感しました。そのようなことを知ることが対話を通じた外交問題の解決につながっていくと僕は信じているんですが、若い世代の人たちがこういった体験を知ることの意義は何でしょうか」

澤地さん
「実際に戦争を経験した人には私たちが想像もできなかったようなことがあるから、本当は聞いた方がいいね。自分の身内の話は聞きにくいとしたら、隣の人の話を聞けばいい。それでお互いに話を聞くことができれば、もっといろんなこと分かると思う。戦争についていっぱい書かれている割には案外知られていないことがあるからね。でも急いでやらないと知っている人は誰もいないという世の中になりますよ。今だったらまだ歳をとっているけれどもこれなら知っているっていう人がいるかもしれない」

「みんなが黙った瞬間から戦争が始まると思っている」

別の生徒は、こう尋ねた。

別の生徒
「失礼な言い方になるかもしれませんけれども、たとえば僕が戦争反対の行動を起こしたとて、はたしてそれが意味があるのかなと思っちゃうんですけど」

澤地さん
「やっぱりみんなが黙ってしまったらその瞬間に戦争の助走が始まると思う。表面的には何もないけれども、みんなが黙った瞬間から戦争が始まると私は思っているのね。みんな声を上げない時代になっちゃった。黙っているよね。声をあげれば目立つから、そういうことが自分にどういう風に跳ね返ってくるかということをみんな考え始めている。そしたら黙っている方がプラスなのよね。いつまで経ってもどこかで戦争があるということは、やっぱり声を上げている人もむなしいのだけれど、諦めて言わなくなったら、そのときにみんなが沈黙しちゃうじゃない。いくら一生懸命大きな声で言っても届くかは分からない、でもやっぱり声をあげなきゃいけないですよね」

およそ2時間にわたってみずからの体験や思いを伝えた澤地さん。

最後にこう語った。

澤地さん
「私はもう92歳だけど、ここまで生きてきたらこのあとの人生なんて考えられない。私は最後の一人になっても、聞かれたら私は戦争に反対ですと言おうと思っています」