「もうあとがない」ステージ4のがん患う91歳 託す思い

「もうあとがない」ステージ4のがん患う91歳 託す思い(2023/08/06 広島局記者 福島由季)

「もうあとがない、時間がない。伝えなかったら、広島で起こったことがなかったことになってしまう」

ステージ4のがんを患う91歳の男性。
被爆体験の“伝え手”を養成しようと、8年ぶりに立ち上がりました。
男性は強い危機感を覚えています。

(広島放送局記者 福島由季)

今やらなきゃチャンスがない

「誰が黙っておられるか。こんなことがあっていいか。皆さんにも一生懸命、語り継いでいただきたい」

新井俊一郎さん(91)は語気を強めて訴えかけました。

目の前にいるのは、被爆者に代わりその体験を伝える「被爆体験伝承者」を目指す人たち。ことし、8年ぶりに養成を再開しました。

新井さんは2015年、腎臓や前立腺のがんなどにより、急激に体調が悪化。
これまで、6か所にがんを患い、手術を繰り返してきました。

腎臓がんはステージ4と診断され、3分の1ほどしか残っていません。
今も月に1度病院に通い、治療を続けています。

そこまでしても伝えたいもの。
ロシアによるウクライナ侵攻が続き核の脅威が高まる中、今動かなければ、もうあとはないという危機感でした。

新井俊一郎さん
「今やらなきゃもうやるチャンスがない。自覚症状がほとんどない今のうちに、動かなければいけない。消える前に、生きたまま、生きざまをありありと生々しく伝え残していくことが一番大切。生の人間が語って、その中の人間からじかに伝わってくる波動や刺激。そんなものが一番大事じゃないかと思っています」

「8月6日なら帰っていいぞ」

78年前、今の広島大学附属中学校の1年生だった新井さん。
食料を増産するための「農村動員挺身隊」として、今の東広島市に滞在していました。

寺に寝泊まりしながら農作業を手伝う日々。
草むしりをしていると、足にヒルがまとわりつくような状況でした。

疲弊していく生徒たち。

「すまんけど、もうちょっと頑張ってくれたら、5人ずつ広島に返してやるから」

巡回に来た教官の言葉を信じ、農作業に力を入れました。

8月最初の土曜日。お寺の本堂に100人ほどの生徒全員が集められました。

「約束どおり、成績優秀5人を広島にかえす。まず、1年北組、新井俊一郎」

最初に呼ばれたのは新井さんの名前です。

「ありがとうございます。それで、いつ帰していただけるのでありますか?」
「よし、8月6日なら帰っていいぞ」

8月6日午前8時15分

8月6日午前8時15分。
新井さんは帰宅するため、友人と一緒に八本松駅のホームにいました。
何気なく自宅のある広島の方を見ていた、そのとき。

新井俊一郎さん
「ギラーッと目がくらんで、広島方面の空が一瞬にして燃えたんです。ガーッと燃えてね、緑色か紫色か、ブルー。いろんな色が混じった炎の輪ができた。頭の上をその炎が来たと思ったら、全身、頭の上からたたかれたような感覚。気が付いたら頭の上から、ぎゅーんと頭の上をね、1機だけB29がすれすれに飛んで逃げていった」

すぐに、駅は大騒ぎになりました。
何が何だか分からないまま、遅れてやってきた列車に乗り込みます。

しかし、列車は次の駅で停車。
広島まで15キロの道のりを歩くことに決めました。
その途中、忘れられない光景を目にします。

午後2時ごろ。逃げてくる被爆者で埋め尽くされていた広島駅の近くの橋で、小学1年生くらいの女の子と3歳くらいの姉妹とすれ違いました。

新井俊一郎さん
「裸で、髪の毛はちりちり。顔は、風船みたいに膨れ上がって、目と鼻と口のところだけちょんちょんと引っ込んでいる。ぎゅっと手をつないだまま、立ちすくんでいる私のすぐ右側を通り過ぎるときに、お姉ちゃんが『しっかりね、がんばってね』だったか。妹に言ったように思う」

「あのときの私の必死の思い。生きていてほしいと思ったよ。ただ見送るだけで、何もしてあげられなかった。これが、原爆の本当の状況です。こんなことがあってよろしいか」

地獄のありさまを見た

当時、防火用に各所につくられていた水槽は、頭から突っ込んだ遺体でいっぱいになっていました。
馬は、4本足を突き立てて、膨れて転がっていました。

異様な光景の中でも、新井さんは怖さも感じず、ただ必死に自宅を目指したといいます。

新井俊一郎さん
「われわれが踏みしだいて飛び越えた焼けぼっくいは、半分以上が人間だと思う。地獄のありさまをつぶさに見ました」

どのようなルートをたどったのかは覚えていませんが、夕方になって自宅に到着しました。

爆心地からはおよそ2.8キロ。屋根が抜け、窓も壁もガラスも吹き飛んだ家の中で、両親は座っていました。

全身にガラス片が刺さり大けがを負っていましたが、命は助かりました。

60年以上語らなかった

一方、同じ小学校に通っていた親友は亡くなりました。
知らせを聞いて飛んでいくと、親友は、がれきの中に寝かされていました。

「この子は悔しい悔しいって。死んでたまるかと言いながら息を引き取りました」

お母さんから、そう説明を受けました。

後日、街なかでお母さんとばったり会った時には、じっと新井さんの顔を見て、ポロッと一筋、涙を流したそうです。

新井俊一郎さん
「何も言わなかったが言いたいことは分かる。うちの子は元気だったら、きっとあなたのようにここにいたでしょうね、と言いたかったんだ。いたたまれなくてその場から逃げた」

広島市の中心部で大勢の子どもたちが犠牲になった8月6日。
どんなに捜しても見つからなかった子どももいました。

広島を離れて死を免れた新井さんは生き残った負い目を感じて、60年以上体験を語ることはありませんでした。

生き残った者の役目じゃなかろうか

新井さんがみずからの体験を語れるようになったのは、80歳を迎えるころ。
被爆者も、遺族も高齢化する中、自分の役割を意識するようになったといいます。

新井俊一郎さん
「被爆から60年、ふとかえりみたら、たくさんいたはずの被爆者も、遺族も少なくなってしまっている。誰かがあの時ちゃんと体験したものを語って伝えていかなければ、広島も長崎もなかったことになってしまう。絶対になかったことはさせたくない。生き残った者の、何かお役目じゃなかろうかというのが私を突き動かしました」

2012年度、広島市が始めた「被爆体験伝承者」の制度に協力。
体調が悪化して、離れるまでの4年間で、13人の伝承者を養成してきました。

教え子たちは県内外で新井さんの被爆体験を伝えていて、中には子育てしながら活動する人もいます。

新井俊一郎さん
「自分の活動の支えとして、力強い仲間として、私の大きな力となっています。感謝でいっぱいです」

もうあとがない 2年を1年で育成

8年ぶりに養成を再開することしは、がんが進行するおそれがあるため、本来2年間かかる伝承を1年で行おうと、入念な準備を重ねてきました。

そして、研修初日、こう呼びかけました。

新井俊一郎さん
「被爆者から聞いた広島の物語を、すさまじい地獄の物語を、後世に伝える役目を持っています。伝承者の皆さんには、同志として向き合ってもらいたい」

「われわれができることは物を申すことです。発言することです。声を上げるということです。われわれ証言者が懸命に証言しているのと同じように、懸命に語り部として伝えていってほしい」

伝承者の研修を受けた人
「時間がないということをリアルに感じて、重いことばだと思いました。もっと勉強していかないといけないなと改めて感じました」

伝承者の研修を受けた人
「本当の本人の思いを次世代に伝承できるように、向き合えたらいいなと思っています」

被爆から78年。
次の世代に伝えることのできるタイムリミットは迫ってきています。

「もう、あとがない」
「なかったことにしたくない」

新井さんの強い思いを、私たちの世代が受け止め、次につなげていかなければなりません。