81歳で毎週、英会話教室に通う男性がいます。
新しい単語を覚えては忘れ、また覚えての繰り返しです。
それでも、どうしても英語で伝えたいことがありました。
彼が毎回のように口にすることばがあります。
「Everything was completely destroyed.」
(広島放送局 記者 大石理恵)
男性は、広島県東広島市に暮らす飯田國彦さん(81)。
週に1度、近所の英会話教室に通っています。
英会話を学ぶ理由は一つ。
3歳の時の体験を英語で、自分の言葉で、外国人に伝えたいから。
1945年8月6日。
広島に原子爆弾が投下された時、飯田さんは、きのこ雲の下にいました。
父親が沖縄で戦死したため、母親の故郷である広島で暮らしていました。
被爆したのは爆心地からわずか900メートルにあった母親の実家でした。
一緒にいた母親は25歳、姉は4歳、飯田さんは3歳。
母親と姉は髪が抜け、体が黒くなり、皮膚が剥がれました。
2人とも足からえ死して、亡くなりました。
飯田國彦さん
「しばらくは『おかあちゃん』と言うと『くにちゃん』と返事が返ってきてたんです。しかし、そのうち何回呼んでも返事が返ってこなくなりました。原爆は私からすべてを奪いました」
生き残った飯田さんを待っていたのは、病気と隣り合わせの日々でした。
爆風によってガラスが刺さった傷口が閉じるまで7年かかりました。
いつも頭痛やめまいがして、昼間でもよく横になっていました。
かけっこはいつもビリ、キャッチボールも縄跳びもできませんでした。
勉強もなかなか進みませんでした。
中学生になった時は、楽しみにしていた部活に入ることができませんでした。
飯田國彦さん
「先生から『飯田くんは勉強ができないから』と言われ、補習を受けることになりました。部活は誰でも入れると思っていて、入れないことは想像していませんでした」
それでも、中学1年生の2学期に先生に掃除を褒められたのをきっかけに勉強を頑張りました。
成績は55人中53番くらいでしたが、最後は首席で卒業したそうです。
その後は、重工業メーカーに技術者として入社。
仕事にまい進しました。
勤め先を退職後、70代前半で広島市の被爆体験証言者となり、修学旅行生や外国人旅行者などに体験を語り始めました。
飯田國彦さん
「当時の日本の男性の平均寿命はたしか77歳でした。核兵器をなくす機運が一向に高まらない中、自分に残された時間を、原爆被害の実態を伝えることに使いたいと思いました。体の中からエネルギーが湧き上がってくるのを感じました」
こうして81歳になる今日まで、多い時では月に20回もの証言活動を行ってきました。
ことしに入り、飯田さんは原爆被害の実態をより多くの外国人にも知ってもらいたいと強く思うようになりました。
きっかけは、5月に開催されたG7広島サミット。
新型コロナの影響で外国人に直接伝える機会が減っていただけに、世界の関心が広島に寄せられるこの機会に、みずから動かなければと考えました。
飯田さんは、原爆被害について英語で記したリーフレットを作成。
爆心地付近で亡くなった人たちの様子や、自分と同じように原爆孤児となった子どもたちについて記しました。
一部一部、自宅のプリンターで印刷してはホチキスでとめました。
さらに、できるだけ自分のことばで伝えたいと、これまでより頻繁に通える英会話教室に入り直しました。
ある日のレッスンでは、被爆直後の街の様子についての表現を学びました。
飯田さんが「火が鉄筋コンクリートの建物に入り、内部が完全に焼失した」と説明すると、アメリカ人の先生は「焼き尽くす」という意味の「incinerate」という単語を教えてくれました。
飯田さんは辞書を引きながら、この単語を前回のレッスンで、すでに習っていたことを思い出しました。
現役時代、仕事で英語を使っていたこともあり、英語の勉強はこれまでも行ってきました。
しかし、年とともに物忘れも始まり、最近は新しい英単語を習っては忘れ、また覚える、その繰り返しだそうです。
梅雨の終わり。
時折雨が降る中、飯田さんは自作のリーフレットをリュックサックに詰めて、平和公園に出かけ、外国人旅行者に声をかけました。
飯田さんが「私は被爆者です」と英語で声をかけると、相手はたいてい驚きます。
まさか78年前の当事者が突然話しかけてくるとは思わないからです。
この日も飯田さんは通りかかった旅行者にゆっくりと英語で語りかけました。
「I am an atomic bomb survivor.I became a survivor,when I was three years old.My mother and my sister died.Near the hypocenter,everything was completely destroyed.」
(私は被爆者です。3歳の時に被爆して母と姉は亡くなりました。爆心地付近では、すべてが完全に破壊されました。)
8月6日に広島で起きていたこと、家族の死。
一つ一つの事実を丁寧に伝えました。
最後に、飯田さんは最も伝えたいことを語りかけました。
「I believe the abolition of nuclear weapons is the only way to world peace.」
(私は核兵器を廃絶することが平和への唯一の道だと信じています。)
以前は声をかけてもつれなくされたり、受け取りを拒否されたりすることもありましたが、G7サミットをきっかけに積極的に受け取ってくれる人が増えたようです。
デンマークから訪問した人
「彼が自分の体験を共有してくれるのはすばらしい。私たちはこの悲劇を覚えておく必要がある」
オーストラリアから訪問した人
「81歳になった彼に出会えてよかった。誰も戦争は望んでないし、核は言うまでもない」
雨の日も、猛暑の日も、飯田さんは時間を見つけては平和公園を訪れた人たちに声をかけ続けます。
これまで会話をした人は国内外から訪れた2000人以上。
飯田さんの思いは少しずつ、でも、着実に広まっています。
飯田さんは最近も脳や甲状腺の腫瘍、神経性の痛みなど、多くの病気と闘っています。
実際、私たちが取材をしていた時にも突然、神経性の痛みに襲われました。
ものすごく痛そうで撮影を止めようとしましたが、飯田さんは「もう、痛いとかは、たいした問題じゃないんです」と言って、取材を続けるよう促しました。
病気を押して、なぜこれほどまでに頑張れるのか。
取材中ずっと感じていたことを尋ねてみると、飯田さんは迷わずこう答えました。
飯田國彦さん
「私はこれまで、何歳になったら何をやりたいなとか、何歳になったら引退だなとか、いろいろ考えてやってきました。でも今は、原爆の実相を伝えて、それを核兵器廃絶につなげる。それがただ一つの私の使命だと思うようになっています。ほかのことはだんだん減らしていきながらでも、頑張っていきたいんです」
私が初めて飯田さんに取材をしたのは2016年。
私が1回目の広島勤務の時で、ちょうど当時のアメリカのオバマ大統領が広島を訪問した年でした。
7年ぶりに飯田さんと再会して強く感じたのは、世界で核の脅威がむしろ高まっていることへの無念さ、そして、みずからに残された時間が限られていることへの焦りでした。
今後、絶対に自分のような悲惨な被爆者を出してはならない。
晩年を迎えた被爆者の揺るぎない思いに、この夏、改めて触れました。
この記事がその思いを少しでも広める一助となれば幸いです。