“もう一度パンプスで歩きたい” 被爆女性 手記への思い

“もう一度パンプスで歩きたい” 被爆女性 手記への思い(2023/08/05 広島局 記者 亀山真央)

広島の爆心地から1キロ余りで被爆した女性。
当時7歳でした。

大きなけがを負うことはなく、学校では明るくひょうきんな性格で人気者になります。
短大を出て就職し、資格の勉強をしながらおしゃれにもこだわっていた24歳の時、突然、白血病に。
原爆病院に入院し、半年後に25年の生涯を終えます。

「もう一度パンプスで歩いてみたい」

女性が病床でひそかにつけていた手記は、当たり前の日常を取り戻したいという思いがつづられていました。

(広島放送局 記者 亀山真央)

人気者だった“末ちゃん”

着物姿で写真に収まる、末次君子さん。
白血病の症状が出る前に撮られた、お見合い写真です。

君子さんは、7歳の時に爆心地から1キロ余りで被爆しました。
母親は大けがを負い、3歳下の妹は自宅の下敷きになって亡くなりました。

君子さん自身は、大きな傷を負うことはなく、周囲の友だちと元気に学校に通うようになります。

友近純子さん

君子さんの親友だった友近純子さん(85)は、明るかったその人柄をよく覚えています。

友近純子さん
「とにかくひょうきんなところがあって、冗談言ったりしてね。末次さんは積極性もあるし、元気がよかったです。『末ちゃん』って言われて人気者でした。映画や旅行に行ったりキャンプに行ったり、どこに行くのも遊ぶのもいつも一緒で、たわいもない日常を過ごしていました」

ある日 腕に紫色の斑点が

中央:君子さん

その後、短大を卒業した君子さんは、路面電車を運行する会社に就職します。

無線技士の資格を取る勉強に取り組んでいた矢先、体に異変があらわれました。

弟の文雄さん

弟の文雄さん
「夏に職場で海水浴に行って、その次の日くらいかな。かぜかなって言っていたんですが、いつもと違う様子で。そうしたら、うちの親父が姉の腕の内側に、紫色の斑点が出てるのを見つけたんです。紫色の斑点は原爆症の印みたいなもので、昔から有名でした。ああ、これは原爆症じゃないかって言われた本人は、もう立ち上がれんような感じでした」

君子さんは急性の骨髄性白血病と診断され、そのまま原爆病院に入院しました。

原爆病院

被爆者の健康調査を続けている放射線影響研究所によると、原爆投下後、広島では急な白血病を発症する人が増加していました。

“もう一度パンプスで歩いてみたい”

君子さんは闘病中、手のひらサイズの手帳に手記を書いていました。

君子さんの死後、母親がベッドの整理をしていた際に、見つけたといいます。

“当たり前の日常を取り戻したい”という君子さんの思いが、ページを埋め尽くすようにびっしりと記されています。

「もう一度パンプスで歩いてみたい」

「あの服とあのパンプスであの青空を仰いでみたい」

社会人になり、おしゃれを楽しんでいた君子さん。

弟の文雄さんは、君子さんの買ったばかりのパンプスのことを覚えていました。

右から2人目:君子さん

弟の文雄さん
「24歳、25歳だもんね。もらった給料をうちに入れた残りで、服を買ったりしていました。新しく買った靴をあんまり履かずに入院したから、ちょっと心残りだったんじゃないかね」

心の支えになった“お母ちゃん”

左:君子さん 右:母親の花子さん

先が見えない闘病生活の中、君子さんの心の支えになったのが、泊まり込みながら看病にあたった、母親の花子さんの存在でした。

君子さんは弟の文雄さんがお見舞いに行った際は気丈にふるまっていたといいますが、手記には、花子さんへの思いや、健康を気遣うことばが多くつづられています。

「お母さん、お母さん、私の一番大好きな人。お母ちゃんが一番いい」

「お母ちゃんが病気にかからないようにお願いします」

「お母ちゃん 私はもう一度普通の娘になりたい」

持ち続けた“生きる意志”

容体は、徐々に悪化していきます。

寝返りが打てないほど体が痛むこともありました。

手記には、やり場のない不安や憤りも記されています。

「夢はこわれるために描くもの。死ぬのかしら、生きるのかしら」

「原爆症って、死ぬのを待つだけなのかしら」

「にくい、原爆がにくい」

そして、亡くなる直前、最後に書かれたページです。

「よくなろう。生きよう。生きぬこう。お母ちゃんそばにいて。そしたらうれしい」

22ページわたって書かれた手記。

ページの通し番号は、君子さんの手によって、30ページまでふられていました。

弟の文雄さん

弟の文雄さん
「ページがふってあるから、もうちょっと生きるつもりだったんだと思います。平和というのは、改めて思ったりするようなものではなくて、日常が普通に続いていれば、それが1番平和なんだと思います。それが続かない時というのがやっぱり異常だと思うんです」

友近純子さん

友近純子さん
「末次さんには夢ややりたいことがたくさんあったと思います。原爆がなかったら、毎年毎年、元気でどこかで会ってたと思うので本当に残念です。原爆から生きながらえても、あとから症状が出て命を奪われた人は、末次さんのほかにもいっぱいいたと思いますよ。原爆というものがどれほど恐ろしいかと思います。原爆がいけないっていうことはみんなよく分かっているのに、一向に改まっていかないのがすごく残念でなりません。この世からなくなることを願っています」

君子さんの手記が問いかけるもの

「私は25歳になりました」

君子さんの手記にこう書かれているのを見つけた時、私と同じ年齢だと気づきました。

取材を通して、何度も手記を読み返しましたが、死の恐怖と闘いながら、「パンプスを履いて歩きたい」という当たり前の日常を望んだ君子さんの思いに、自然と涙が出てきました。

私は就職して3年目で、毎日、当たり前のように朝起きて仕事に行き、休みの日は同期や友人たちと過ごしています。

弟の文雄さんがみせてくれたアルバムには、君子さんも白血病だと分かる直前まで、友人の結婚を祝い、会社の同僚と海に行っている様子が分かり、自分の生活と重ね合わせました。

「幸せになりたい」とつづっていた君子さん。

被爆し、10年以上がたってから、何気ない日常が突然奪われてしまう理不尽さへの怒りは、手記のことばだけでは表しきれなかったのではないかと感じました。

核兵器が使われることの意味を、改めて多くの人に考えて欲しいと思います。