沖縄の“穴場”観光スポット 人気急上昇の洞窟の素顔とは

沖縄の“穴場”観光スポット 人気急上昇の洞窟の素顔とは(2023/08/02 沖縄局 記者 喜多祐介)

「すごい!神秘的できれい!」

「SNSで写真を見て来ました」

幻想的なライトアップが施された静かな鍾乳洞。

スマホで写真を撮る際の“カシャカシャ音”が、ひっきりなしに響いていました。

同時に、中に置かれた案内板をじっと見つめる人の姿も。

5年前に完成し、今では年間10万人近くが訪れる沖縄の新たな“穴場”の観光スポット。

その洞窟には、地元の人たち以外にはあまり見せてこなかった“素顔”がありました。
(沖縄放送局 記者 喜多祐介)

SNSで“高評価” 人気急上昇中の鍾乳洞

カラフルなライトアップ。

ハート型に抜けて見える空。

ライトアップされた洞窟

いま観光客からの人気が急上昇している、沖縄本島中部・うるま市にある全長およそ200メートルの鍾乳洞、「CAVE OKINAWA(ケイブ オキナワ)」。

人気の理由はSNSでの“高評価”です。

書き込まれたコメントや投稿写真を見て訪れる人が後を絶ちません。

池原勇矢さん

手がけたのは、地元出身の池原勇矢さん(32)。

先祖代々引き継がれてきた土地にあったこの洞窟を、およそ3か月かけて改装しました。

業者に依頼するだけでなく、コストを抑えるため、池原さん自身で6メートルほどある鉄パイプを500~600本運び込んだり、足場や階段を設置したりしました。

どうすれば観光客が「行ってみたい」と思うような場所にできるのかを考え、ありのままの自然を感じられるエリアと、ライトアップによって幻想的な雰囲気を感じるエリアの両方をつくることにしました。

色合いや明るさにもこだわりました。

池原勇矢さん
「各所にフォトスポットを示して、訪れた人達が記念になる写真を撮りやすいように工夫しました。数万年という長い年月をかけて自然に形成された鍾乳洞なので、まずはそういう自然の魅力を感じていただきたい。それにプラスして伝えたいのは、この洞窟の歴史ですね」

池原さんが改装に踏み切った目的。

それはこの洞窟の、78年前の戦争での“素顔”を知ってもらうためでした。

全員が生き延びた “奇跡の洞窟”

太平洋戦争末期、激しい戦闘に巻き込まれ県民の4人に1人が犠牲になった昭和20年の沖縄戦。

慶良間諸島や沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、次々と各地を占領していきました。

戦闘員や看護要員などとして多くの住民が軍に動員されましたが、そうでなかった人たちも、戦場となってしまった沖縄を歩いて避難し続けたり、何週間、何か月間も洞窟に逃げ込んだりしていました。

そうした中、この洞窟にも近くの住民100人以上が逃げ込んだのです。

当時の状況を知る人は今ではほとんどいなくなりましたが、池原さんに紹介してもらうなどして、実際に避難した2人に話を聞くことができました。

左:知花シゲさん 右:池原シゲ子さん

今も近くに住む、池原シゲ子さん(82)と、知花シゲさん(89)です。

アメリカ軍がすぐ近くに迫る中、息を潜める暮らしがおよそ3か月続いたといいます。

知花シゲさん
「子どもたちも泣かせなかった、泣いたらアメリカ兵がくると」

池原シゲ子さん
「幼かったので記憶があまりありませんが、暗くて足元もぬれていて、しょっちゅう泣いていたのを覚えている」

日中は身を寄せ合って耐えしのぎ、攻撃が減る夜に足早に食事を作りに家に戻る、という暮らしを続けていた住民たち。

洞窟の入り口付近の天井が黒っぽくなっているのは、当時かま焚きをした際のすすだと教えてくれました。

洞窟の入り口

しかし、アメリカ兵は、住民が身を寄せていたこの洞窟を見つけます。

捕まると何をされるかわからない。

また、投降することは恥だと教え込まれていた住民たちは動揺しました。

その時、行動を起こしたのは、当時この集落を取りまとめていた山城政賢区長でした。

「自分が出ていき、戻ってこなかったらここから出ないように」

そう言い残してアメリカ兵との交渉に出ていきます。

その後、区長が無事に戻ってきたことで住民たちは投降することになり、全員が生き延びたのです。

戦後、区長は「命(ぬち)どぅ宝、負けるが勝ち、命こそが大切だ」と子どもたちに繰り返したといいます。

全員が助かるきっかけを作った山城区長。

洞窟を改装した池原勇矢さんは、その「ひ孫」にあたります。

池原勇矢さん
「皆さんたちの思いもしっかり背負って、いろんな方々にこの洞窟の歴史を伝えていきたいと思っています」

取材に立ち会った勇矢さんは、シゲさんたちにこう決意を伝えていました。

知花シゲさん
「この洞窟があるから1人の犠牲も出ず、集落みんなの命が助かりました。二度と自分たちが味わったことを繰り返さないように、それだけを願っています」

こうした出来事からこの洞窟は、沖縄のことばで「命をしのいだ(守った)」という意味の、「ヌチシヌジガマ」と呼ばれるようになりました。
(「ヌチ」=「命」、「シヌジ」=「しのいだ」、「ガマ」=「洞窟」)

多くの人に知ってもらいたいから “広い入り口”で

戦争を生き抜いた曾祖父からつながってきたみずからの命。

池原勇矢さんは、観光客だけでなく地元の子どもたちへの平和学習にも力を入れています。

子どもたちに話す池原さん

池原勇矢さん
「ひいじいさんが命を大事に生き抜いたからこそ、僕もこうして生まれてこれたのかなと感じたりします。“命は大事、平和は大切” 誰でも当たり前に感じることですが、こういう機会に再認識して、今後の皆さんの人生にもいかしてほしいです」

池原さんは、洞窟の中に鍾乳洞としての魅力を記しただけでなく、沖縄戦について書いた案内板を設置しています。

子どもたち、そして観光客も、その案内板をじっと見つめていました。

案内板を見る子どもたち

見学した地元の中学生
「当時は整備されていないから、暗いんだろうなとかそういう風に考えながら歩きました」

見学した地元の中学生
「沖縄戦についてあまり知らない内地(本土)の人にも、沖縄のこと知ってほしいし、これからも平和を守り続けるためにこの壕に来てほしいです」

池原勇矢さん
「沖縄戦で本当に悲惨な、大変な思いをされて亡くなられている方がいるので、戦争について軽々しく言えないのが本音です。でもやっぱり平和や命について伝えていくことは大切じゃないかと。なので、“入り口”を広くして多くの人に足を運んでいただき、自然のすばらしさや魅力だけでなく、沖縄の歴史・文化、そしてこの洞窟にまつわる歴史的な部分も含めて、広く伝えきれるような場にしていきたいです」

日本にあるアメリカ軍の専用施設の7割が集中する沖縄。

取材中、洞窟の上空では、数キロ先にある空軍基地に着陸しようと高度を下げるアメリカ軍の戦闘機の姿が頻繁に目に入ってきました。

人々を救い、命の大切さを語り継ぐ「ヌチシヌジガマ」は、姿を変えながらも、戦争の記憶を伝え続けています。