日米の軍艦 “最後の生存者”  届けられた2人の手紙

日米の軍艦 “最後の生存者” 届けられた2人の手紙(2023/08/01 松山局 記者 木村京)

かつて太平洋戦争を敵として戦った2人。

1人は旧日本海軍の潜水艦の元乗組員。

そして、もう1人はその潜水艦に沈められたアメリカの軍艦の元乗組員です。

戦後、長い月日が流れ、今や2隻の船の生存者はそれぞれ1人だけとなりました。

いくつかの偶然が重なり2人は手紙を交換するようになります。

78年の月日を経て、海を越えて届けられた手紙には、どのような思いがつづられていたのでしょうか。
(松山放送局 記者 木村京)

78年前、船は沈んだ

アメリカ中西部のインディアナポリス市で開かれた追悼の集会です。

追悼の集会に集まった「インディアナポリス」の元乗組員の遺族や関係者

7月30日。

集まったのは78年前のこの日、フィリピン沖に沈んだ「インディアナポリス」の元乗組員の遺族や関係者。

およそ900人の犠牲者に祈りがささげられました。

上:インディアナポリス 下:伊58

アメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」。

当時、後に広島に投下された原子爆弾の部品を太平洋のテニアン島に運び終え、フィリピンのレイテ島に向かっていました。

極秘任務のため単独で航行していたところ魚雷攻撃を受けたのです。

攻撃したのは旧日本海軍の大型潜水艦「伊58」。

太平洋戦争末期、人間魚雷・回天を載せ特攻作戦に参加したことでも知られています。

「伊58」“最後の生存者”

愛媛県松前町に住む「伊58」の元乗組員、清積勲四郎さん(95)です。

10人きょうだいの6番目として育ちました。

軍国少年だったと言います。

清積勲四郎さん

清積勲四郎さん
「当時アメリカは日本を苦しめる悪い国だと学校でも教え込まれて信じていましたね。10人きょうだいだったから家庭のことも考えて、学校を出たら軍隊へ入るかよそへ働きに出るかだった」

海軍の学校の卒業写真

尋常小学校を卒業後、陸軍を経て海軍に入隊した清積さん。

船員としての技能を学ぶ海軍の学校で優秀な成績を修め、終戦の年に「伊58」の乗組員に抜てきされました。

清積さんは当時のことをこう振り返ります。

清積勲四郎さん
「学校にいたときに母から『兄が乗った船がグアム島の近くでアメリカの潜水艦に沈められて亡くなった』と連絡がありました。先生には『お兄さんの敵をとるために、潜水艦に乗って頑張りなさい』と言われました。敵の船を1隻でも2隻でも沈めるぞという気持ちでした」

当時16歳。「伊58」の100人近くいた乗組員のうち最年少だったと言います。

艦内では食事の支度などの任務を担当。

人間魚雷の「回天」が出撃したあとには、用意する食事が1人分少なくなったことを今でも覚えている清積さん。

何とも言えない気持ちになったものの、死と隣り合わせだった当時、それ以上の感情はなかったと話します。

そうした中迎えた運命の夜。

「伊58」はフィリピン沖の海上で「インディアナポリス」の艦影を確認。

発射した魚雷は命中し、船はごう音とともに炎を上げて、7月30日の深夜、海に消えていきました。

1200人近くの乗組員の大半が犠牲となりました。

戦後、清積さんは愛媛に帰り民間企業で定年まで働きました。

この夜のことも含めて、これまで戦争について家族に話すことはほとんどなかったと言います。

当時は年若く命じられるがまま任務に当たっていた清積さん。

戦後、報道などを通じて自分が戦った戦争の実態を知るようになるにつれ、むなしさを感じるようになりました。

ともに「伊58」に乗った戦友たちはすでに亡くなり、今では「最後の生存者」とみられています。

もう1人の“最後の生存者”

ことし6月、清積さんの元を1人の女性が訪ねてきました。

アメリカの大学教員、ハリス田川泉さんです。

大学があるインディアナ州のインディアナポリス市は町名が軍艦の名前に使われた縁から乗組員の遺族などの集まりも開かれています。

左:ハリス田川泉さん

田川さんは偶然目にした新聞記事で清積さんのことを知りました。

記事は愛媛県今治市の図書館で開かれた「伊58」や「インディアナポリス」について紹介する展示会を取り上げたものでした。

「インディアナポリス」の家族会とも交流がある田川さんは、彼らからのメッセージを託され来日することになりました。

この日、図書館で初めて対面した2人。

清積さんは手紙を受け取ると、しばらくじっと見つめていました。

そして田川さんが添えた日本語訳をゆっくり読み上げました。

ハロルド・ブレイさんからの手紙

親愛なる清積さんへ

私の名前はハロルド・ブレイ。

USSインディアナポリス最後の生存者です。

あなたは潜水艦伊58の最後の生存者であると聞いています。

私はあなたに友情の手を差し伸べ、あなたやあなたの同胞に恨みはないと伝えたいのです。

私たちはともに国のために戦いました。

そして戦争が終わった今は癒しの時です。

戦争に勝者はいません。

船員、家族、友人など双方が多くを失うのです。
(中略)
よりよい、より安全な世界を築くために共に努力していきましょう。

真心を込めてハロルド・J・ブレイ

写真のハロルドさんと握手する清積さん

清積勲四郎さん
「ありがとうございます、ブレイさん。私もあなたに恨みはありません。お互い殺し合う戦争は決して許されないことだし、平和のために努力することが大切だと私と同じように思ってくれていてそれがいちばんうれしい」

ハロルド・ブレイさん

手紙を書いたハロルド・ブレイさん(96)です。

沈む船から救出され、一命をとりとめました。

清積さんと同じく「インディアナポリス」の「最後の生存者」です。

かつては敵として、国のために命をかけて戦った2人。

78年の年月を経て、思いが通じ合った瞬間でした。

その様子を見届けた田川さんも平和への思いを新たにしていました。

ハリス田川泉さん
「大事なミッションだったので手紙を気持ちよく受け取っていただいて、私は肩の荷がおりてほっとしています。私たちが歴史を学び、伝えていくことで、平和な世界を作っていきたいです」

田川さんが届けた手紙は合わせて5通。

ハロルドさん以外にも戦死した元乗組員の家族が書いたものもあります。

そのうちの1通をご紹介します。

親愛なる清積勲四郎様

本日はお手紙を差し上げることができ、大変光栄に存じます。

私の祖父は、1945年7月30日の運命の夜に亡くなりました。

私を含めて私たち家族は、あなたやあなたの仲間の乗組員に対して恨みの気持ちを持っておりません。

第二次世界大戦は戦ったすべての人にとって困難な時代でしたが今は許しと平和を求める時です。

私の祖父も同じように感じていることでしょう。

私はあなたの心も平和であるよう祈っています。

敬意を込めて
ドーン・オト・ボルヘッファー セオドア・G・オットの孫娘

78年たって伝える思い

この数日後、清積さんはハロルドさんたちに返事を書きました。

返事を書く清積さん

一文字一文字、自分の思いを丁寧に書きつづった清積さん。

平和な世界で手紙のやりとりができることに感謝の気持ちを口にしていました。

親愛なるハロルド・ブレイ様 (※一部抜粋)

戦争は不幸な出来事ではありましたが、今日こうしてお互い幸せに平和に暮らし、友として語り合える日を迎えたことに感動を覚えます。

今は亡き戦友たちの霊にあなたの心を届けたいと思います。

ありがとうございました。

清積勲四郎

海を越えて届けられた手紙

清積さんの手紙は田川さんがアメリカに持ち帰り、追悼の集会で読み上げられました。

ハロルドさんは高齢のため出席はかないませんでしたが、返事が届いたことをとても喜び、「こうして2人がつながれたことはすばらしいことだ」と話していたということです。

追悼集会で読み上げられた清積さんの手紙

集会には元乗組員の家族も多く出席しました。

そのうちのひとり、マイケル・ウィリアム・エモリーさんです。

犠牲となった元乗組員のおいに当たります。

清積さんがマイケルさんに向けて書いた手紙も読み上げられました。

マイケル・ウィリアム・エモリーさん

貴方の様な若い方が平和を願いながら遠い異国に住む一老人に心をかけて下さる事に感謝しております。
(中略)
貴方様も元気で幸せに平和な世界を築く日々を目ざして生きていかれる様祈っております。

マイケル・ウィリアム・エモリーさん
「きょうは78年前に沈んだインディアナポリスの乗組員たちに敬意をもって追悼するために集まりました。そんな日に『伊58』の最後の生存者の清積さんからの手紙が届き、私たちにとって歴史的な一日となりました。2隻の船の乗組員たちのことを決して忘れません。私たちの物語はまだ始まったばかりです」

出席者から現地の映像を提供してもらい、私は集会の様子や出席者の反応を清積さんに伝えました。

清積さんは無事に手紙がアメリカに届いて「大仕事を終えた気分で、ホッとしました」と安心した様子でした。

清積勲四郎さん
「自分の気持ちがアメリカの人たちにも伝わってうれしいです。手紙のやりとりができる平和な時代で本当にありがたいなと思います。悲しみを生む戦争は二度と起こってほしくない」

“美談で終わらせてはいけない”生存者どうしの交流

取材を通じて、ハロルドさんの写真を優しい目で見つめる一方で「戦争は絶対にしてはいけない」と繰り返し話す清積さんの意志の強いまなざしが印象的でした。

記憶をたどりながら真剣に話してくださる姿に、改めて壮絶な時代を生き抜いた強さと優しさを見た気がします。

78年の時を経て始まった最後の生存者どうしの交流ですが、これを決して美談で終わらせてはいけません。

戦争がなければ憎み合うこともなかった2人。

今回、奇跡的な偶然が重なって、海を越え心の交流が実現しましたが、ここにたどりつくまでの人々の悲しみや苦しみ、そして失われた多くの尊い命にも目を向け、戦争の愚かさを改めて胸に刻みたいと感じた取材でした。

当時のことを知る人が年々少なくなる中、私たちは戦争体験者から直接話を聞ける最後の世代かもしれません。

これからも記者として、体験者の話に耳を傾け、記録し伝え残すことを続けていきます。