サーロー節子さん 死者に代わって言い続ける

サーロー節子さん 死者に代わって言い続ける(2023/07/28 社会部記者 富田良)

「広島まで来てこれだけしか書けないのかと思うと、胸がつぶれるような思いがしました。広島の意味を理解してほしい」

半世紀以上にわたり世界各国で被爆体験を語り続けてきた被爆者、サーロー節子さんは怒っていた。

5月の広島サミットで出された「広島ビジョン」には、「核兵器の非人道性」や「核兵器禁止条約」への言及がなかった。

「死者に代わって言い続ける」

怒りの背景には、あまりの出来事に涙さえ出なくなったあの日に誓った思いがあった。
(社会部記者 富田良)

光を信じた被爆者

1945年8月6日。

13歳、中学1年生だったサーロー節子さんがいた広島の街の上空で原爆がさく裂した。

爆心地から1.8キロの場所で、倒壊した建物の下敷きになった。

「諦めるな!光が見えるだろう?そこに向かってはって行け」

体を動かせない暗闇の中で聞いた声と差し込んできた光を信じ、逃げ出して生き延びることができたが、姉や4歳のおいなど、親族8人を亡くした。

サーローさんの姉とおい

そして同じ女学校の同窓生、351人が亡くなった。

サーローさんは大学卒業後、アメリカに留学。
結婚を機に移り住んだカナダを拠点に世界各国で被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴えてきた。

いつも亡くなった同窓生の名前が書かれた布を持って、被爆体験を語ってきた。

そのことばは国際交渉の場で各国政府の外交官を動かし、2017年には国連で核兵器禁止条約が採択されるのに貢献。

同じ年にICAN=核兵器廃絶国際キャンペーンがノーベル平和賞を受賞した際には被爆者として初めて授賞式でスピーチを行った。

被爆直後、がれきの下から逃れた経験を語り「光に向かってはっていけ」と厳しい状況の中でも核廃絶に向けた取り組みを続けなければいけないと訴えた。

ノーベル平和賞授賞式でのスピーチ(2017年)

核兵器禁止条約に触れなかったサミット

その後、おととしには核兵器禁止条約が発効し、核廃絶に向けた一歩を踏み出したかのように見えた。

しかし、去年からはウクライナへの侵攻を続けるロシアが核による脅しを繰り返し、西側諸国がけん制するという緊張状態が続いている。

その中でことし5月、サーローさんのふるさと、被爆地・広島で開かれたG7サミット。

サーローさんや被爆者たちは、広島で開かれる歴史的な意義を踏まえ、核軍縮に向けた議論が少しでも進むのではないかと期待を寄せていた。

慰霊碑に献花する首脳たち

サミットで、各国の首脳は原爆資料館を訪れ、館内で被爆者の話を聞き、原爆死没者慰霊碑に花を手向けて黙とうをささげた。

しかし、被爆の実相に触れたはずの首脳たちによってまとめられた「広島ビジョン」には、核兵器の非人道性や核兵器禁止条約への言及はなかった。

広島ビジョンから
「安全保障政策は、核兵器はそれが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている」

安全保障環境が厳しいことは理解するものの、核兵器があることを前提にしたような内容だとして、被爆者からは失望の声が上がっていた。

サーロー節子さん
「この場(広島)を選んで、大切な会議のために来た。ヒストリック(歴史的)な場所で被爆者と会って、原爆資料館の中を見てもらって、リーダーとしての責任を強く感じさせられたと。被爆者の気持ちをもっと親身に感じてほしかったと思うんです」

「78年間、生き残った人の悲願として、絶対に核兵器の使用が繰り返されてはいけないという強い希求をもってわれわれは生きてきた。それを理解し感じてくだされば、広島にやって来た意味があると思いますし、その意味をまず最初に広島ビジョンに書いてほしかった。しかし書かれた内容があれでいいんでしょうか。非常に悲しいことだったと思います」

治療のため4年ぶりに来日

91歳のサーローさんはコロナ禍を経て、ことし5月、およそ4年ぶりに来日した。

年齢を重ねるごとに足や腰に痛みが出るようになり、専門的な治療や手術を受けるために広島の病院に入院。
リハビリを続けるなかでインタビューに応じた。

サーロー節子さん
「手術は成功したようです。でも手術だけじゃだめで、理学療法やリハビリが大切だって。呼吸のしかたや自分の体の機能など、全部説明してくれてありがたいです。自分や日本の皆さんの生活を見つめたり、新聞を読んだりカープの成績も見たりしています」

核廃絶が遠のくように見えるいま、サーローさんはどう感じているのか。

サーロー節子さん
「威嚇とか脅しという方法がプーチンやその周りの人たちによって使われていること、それは許されないことです。でもそれに対してほかの核兵器を持っている国がそれに便乗して『そうだそうだ、軍備を増やしてそれに対抗できるようにしよう』というような反応を示しているように思うので、それを私は非常に心配しています。平和に向けてではなく、武器を供与するとか貸してあげるとかそういう話でいっぱいじゃないですか。一体どこで誰がが平和をもたらすために外交的な話し合いがされているんでしょうか」

91歳の今も語り続けるのは

被爆者の平均年齢は85歳を超え、ともに声をあげてきた仲間は年々少なくなっている。

サーローさんも移動には車いすが欠かせなくなり、以前のように世界各地をめぐることは難しくなっている。

それでも、いまも世界各地から話を聞きたいという依頼が寄せられている。
今回の来日でも、母校などで講演で若い人たちに訴えた。

サーロー節子さん
「あの時、極限の状態で物を感じる、そういう能力がなくなるっていうことを自分の体、自分の心のこととして経験しました。私の姉と4歳のおいが焼けただれて、肉の塊っていうような状態で『水を、水を』って求めながら亡くなりました。兵隊さんが穴を掘って遺体を投げ込んでガソリンをまいて焼ける、考えられないようなことが13歳の私の目の前で起きたんですよ。私にとって最もつらかった思い出なので思い出します。本当にぼう然として心の中は空白で、それを眺めてたっていうことはちゃんと覚えてます。ただ涙も何もなかった」

「ああいう非人道的なことが、何十万を一瞬にして皆殺しにするような悪らつなことがされたということ、そういうことがされてはいけないっていう悲願ですよ。そのためにも、生きたままで焼け殺されてしまった学友だとか家族を犬死にさせてはいけない、あの人たちが希望している『もう二度とこういうことを繰り返させない』ということ、それを私たちが死者に代わって実現するまで言い続ける。それが私の悲願です。そういう強い思いがあれば、苦しい、もう投げ出したいっていう時があってもやめるわけにいかない。目的が達成されるまで私には責任がある。そういう強い責任感というものがあるからこそ、われわれ一人一人が立ち上がって続けているんだと思います」

若者たちが希望に

数週間後、サーローさんのもとに今回講演を聞いた広島女学院中学・高等学校の生徒たちから手紙が届いた。

生徒たちの手紙
「平和への願いを私の心に刻みつけてくれた。私がこれから平和のために何を思うか、何をするか。諦めないでその方法を模索し、行動に移したい」

「一人ひとりが『これはおかしい』とか『このようにすべきだ』という正しい意見や強い意志を持つ、個人の意識次第で世の中は変わっていくのかもしれないと思った」

中には、サーローさんの話を聞いて、考えが変わったという声もあった。

「核抑止はしかたがないという思いを持っていたが、日常を奪う核兵器の存在を見過ごしてはいけない」

サーロー節子さん
「大きな望み、希望があると思います。もう涙なしには読めないような、非常に感動的なものでした。若い人たちがセンシティブに(敏感に)今の世界の動きを考えている、日本がこうあるべきだっていうふうな強い情熱を持っているってことで、非常に励ましになりました。ぜひこうした若い人たちの、真剣に考えていらっしゃる人の態度を支援、サポートしてほしい。それで、ただ考えるだけじゃなくて、何とか必要なアクションに変えてほしい」

原爆の日を前に

アメリカによる広島・長崎への原爆の投下から、まもなく78年。
サーローさんは被爆地から発信される言葉を受け止めてほしいと考えている。

サーロー節子さん
「心を開いて頭もちゃんとオープンにして、テレビで放送される式典やスピーチとか、いろんなものをとにかくオブザーブして(よく見て)ください。自分でそれを消化してください。何か心に訴えるものがあれば、考えるなり読書を続けるなりして、周囲の人たちと議論してください。自分の心を表現するアクションをとってください。これこそ今この地球上に生きてる人間として、最も緊急な問題であるということを理解して下されば、そういうこともできるはずだと思います」