“青春時代は戦争だった”「桃の節句」は学友たちと天国で

“青春時代は戦争だった”「桃の節句」は学友たちと天国で(2023/03/02 沖縄局記者 西銘むつみ)

3月3日の「桃の節句」。この日を毎年、特別な思いで迎えていた人がいます。沖縄戦の語り部、中山きくさん。ことし1月、がんのため94歳で亡くなりました。

20万人を超える人たちが亡くなった沖縄戦で、多くの学友を失ったきくさん。桃の節句には学友を慰霊する塔の前で、ひな人形やお菓子を供えてきました。

友を失った悲しみ、自分が生き延びた負い目、平和を願う祈り…きくさんの思いや足跡をたどります。
(沖縄放送局記者 西銘むつみ)

10代で戦場に 負傷兵を看護

今から78年前、1945年の沖縄戦。圧倒的な兵力で上陸したアメリカ軍に対し、沖縄では日本軍の戦力不足を補うため、旧制の中等学校や高等女学校など21の学校から、10代の男女が戦場にかり出されました。

きくさんと学友たち

当時16歳で、県立第二高等女学校に通っていた中山(旧姓・津波)きくさん。学校の55人の仲間とともに「白梅学徒隊」として、日本軍の野戦病院に配置されることになりました。任務は負傷兵の看護です。

わずか18日間の看護教育を受けたのち、きくさんたちは現場へと向かいました。

女学校のころのきくさん(写真中央)

地獄だった野戦病院

野戦病院壕の跡

きくさんが配置された、沖縄本島南部の八重瀬町にある野戦病院壕(ごう)の跡。この壕には、およそ500人の負傷兵が収容されたと言われています。

2010年に取材で訪れた時、きくさんはその惨状を赤裸々に語っていました。

中山きくさん
「負傷兵の排せつ物のにおい、ランプのすすのにおい。それはそれは人間のいる場所ではなかった。地獄ですね。主に手足の切断とか、体内に弾がとどまっていたりとか、本当に手術を要する方だけが運ばれてきました」

医薬品はほとんどなく、負傷兵の叫び声が響く中で、きくさんは看護を続けたといいます。

「麻酔もなく、手術を受けた兵隊さんは、メスをいれた瞬間、『やめてくれ、切らないでくれ』と本当に1人残らず叫ぶ中、軍医が手足を切断するのを手伝い、目を背けると怒られました。治療が行き届きませんから、化のうして脳症になる人もいました。板敷きの2段ベッドから飛び降りて走り回ったり、消毒ができないから破傷風菌が入って硬直してガチガチしたりする人もいて、とにかく目もあてられない患者で満杯でした」

巻き込まれた22人の学友

名前が刻まれた慰霊碑

壕の中と外で、負傷兵たちの最期をみとったきくさん。

戦況が悪化する中で、病院機能は失われ、女子学徒隊は解散命令を受けます。

きくさんたちは南へ南へと逃げましたが、身を寄せていた日本軍の壕にアメリカ軍の猛攻撃が行われるなどし、22人の学友が亡くなりました。

亡き学友との大切な時間

沖縄戦最後の激戦地、糸満市に、第二高等女学校の女子学徒などを悼むため建てられた「白梅之塔」。2017年3月3日、きくさんはともに生き残った学友と一緒に塔を訪れました。

「皆さんと一緒にひな祭りを楽しみたい。お化粧セット、口紅、紅筆、縫い針セットを用意したので、天国で使ってね」と声をかけたきくさん。

塔の前に赤い布を敷き、化粧道具のほか、お菓子と果物、それに、ひな人形を並べ、線香をたいて手を合わせました。

中山きくさん(2017年3月3日)

中山きくさん
「心の底には皆さんのように戦争で命を失うようなことが二度とあってはならないという思いがあります。私たちは皆さんの冥福を祈り、平和を誓います。こうして生かしてもらって生き延びて、お化粧もしていますが、彼女たちは10代で止まったままなんです」

この日は修学旅行生も訪れました。福島県の「桜の聖母学院」中学校の生徒たちです。2014年3月3日、修学旅行で偶然、塔の前を通りかかり、きくさんのこの日に寄せる思いを知ったことがきっかけでした。

きくさんは「10代で亡くなった学友たちは、同じ年頃の皆さんの訪問を喜んでいると思います。ありがとう、ありがとう」と生徒たちに何度も感謝の思いを伝えていました。

“青春時代は戦争だった”

きくさんは所属した白梅学徒隊だけではなく、資料が少ないほかの女子学徒隊の体験も記録に残さなくてはいけないと、元女子学徒たちで2001年に「青春を語る会」を立ち上げ、代表を務めました。

会のメンバーとそれぞれのたどった戦場をバスで巡ったり、現地に降り立ったりとフィールドワークも実施して、互いの沖縄戦の体験を共有していきました。

中山きくさん
「私たちの青春時代は戦争だった。戦争が来る前は、私たちも勉強をしたり恋をしたりして、学園生活を楽しんでいた。いまの10代の皆さんと全く同じだったの。特別な人たちが戦争に巻き込まれたわけではないの。いまと同じように平和な普通の暮らしをしていた少女たちに、戦争が襲いかかってきた。どうしても若い方たちに、この引き継ぐということ、バトンタッチね、そうしないことには、沖縄戦が風化してしまう。風化させてはいけないの」

埋もれていたかもしれない、女子学徒隊の記憶。

きくさんは「青春を語る会」でまとめた記録を300ページ余りにわたる合同記録集「沖縄戦の全女子学徒隊」として完成させました。きくさんたちが体験を語れなくなった時に、伝える手立てとなってほしいとの思いから、5年をかけて作られました。

中山きくさん
「記録集を読むと、お国のために県民総出で軍事基地作りをしたことが思い出されます。しかし、それは結果的に抑止力にはならなかった。沖縄戦では、かけがえのない20万余の尊い命や、大切な郷土の自然も文化遺産もすべて失われ、初めて戦争は人類にとって最も不幸な、忌むべき行為であるということを思い知らされました。当時、私たちは戦争というものを知らなかったんです。だから、戦争の姿を伝えなくっちゃってことですよ」

きくさんの思いを受け継ぐ

ことし1月、がんのため94歳で亡くなったきくさん。

私(記者)は18年前の2005年にきくさんと出会い、12年たってから、「桃の節句」に毎年、白梅之塔に行っていることを知りました。きくさんは、取材の中でこうも語っています。

「就職しました、結婚しました、子どもができました。そういうときに必ずね、あの仲間たちもいたらなと。いたらおそらく、自分のように、こういうふうに歩んでいたんだろうなと思ったらね‥‥‥。それと、ご遺族の方に『よかったね』みたいなことを言われると、よけいにつらくなってね」

そのことばには、青春をおう歌する間もなく命がついえた友を思う悲しみ、自分が生き延びた負い目、もう二度と誰も学友のような目に遭わせたくないという平和を願う祈り、きくさんを語り部として突き動かしてきた思いのすべてが凝縮されているように感じました。

季節の節目、人生の節目を、自分の幸せをかみしめる前に、亡き学友を思ってきたきくさん。天国では学友たちと「桃の節句」を楽しんでいると思います。

きくさんたち沖縄戦の体験者の思いを伝え続けていく。私は「桃の節句」が来るたびに、その思いを新たにしたいと考えています。