沖縄戦の傷痕 那覇市の住宅街に残る避難壕と語り継ぐ人たち

沖縄戦の傷痕 那覇市の住宅街に残る避難壕と語り継ぐ人たち(2022/10/11 沖縄局記者 小手森千紗)

沖縄戦の戦跡というと「ひめゆりの塔」をはじめとした沖縄本島南部の慰霊塔や避難壕のことを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。これらの戦跡は戦後、遺族などによって整備され、修学旅行のコースに組み込まれるなど平和学習にも活用されている。ただ沖縄戦で戦場となったのは南部だけではない。戦争の傷痕は長い年月で見えにくくなっただけで、いまも島のいたるところに残されている。当たり前の日常の風景、例えば那覇市の住宅街にすら、その地下には戦争の記憶が眠っている。

暮らしのすぐそばにある沖縄戦

首里城の南に位置する繁多川地区は、那覇市のなかでも、古くから使われている細い路地が複雑に入り組み、昔ながらの風景が特徴的な住宅街だ。

那覇市繁多川地区

そうした街並みの中に、避難壕は突如として現れる。日常生活と戦跡の距離の近さに、戦争が人々の暮らしの中に入り込んでいった現実を見て取ることができる。

この地域に残る壕の1つ「新壕」(ミーゴウ)には、戦争中、当時の村役場や警察署が置かれた。

今回の取材では許可を得て、その中の様子を撮影した。日ごろ人が入ることはなく、NHKの取材クルーがこの壕を撮影するのは初めてだ。

新壕の入り口は住宅地に残る草むらの中にあり、現在は四方をフェンスで囲んでカギがかけられている。直径1メートル余り、一見すると落とし穴のようだ。

初めて記録した壕のなかは

安全のためロープを体に巻きつけ、穴を降りる。地表からは2メートルほど、ほぼ垂直な穴だ。

その後、やや急な斜面が続く。斜面の空間は狭く、時折、ヘルメットが頭上の岩にぶつかる。気付くと外に注いでいた沖縄の日ざしは遮断されていた。

体にまとわりつくような湿度の中、壕の天井からは無数のしずくが落ち、ピチャピチャと音を響かせる。つい数日前まで台風が来ていたから、ふだんと比べてしずくの量が多いのかもしれない。

斜面を降りきった先には、外の様子からは信じられないような広い地下空間が広がっていた。この壕には多いときで150人もの人々が避難していたというが、それも納得できる広さだ。

広い空間からはいくつか通路が枝分かれし、その先には別の空間が広がる。複数の場所にはかまどの跡も残され、落ちている瓶や食器の破片は戦争中に使われたものとみられるそうだ。

この壕の存在は、沖縄戦が始まる直前まで知られていなかった。

壕は子どもたちが偶然見つけた

今も近くに住む具志堅浩文さん(85)は、当時のいきさつを知るひとりだ。

太平洋戦争後期、当時7歳だった具志堅さんは、近所の草むらで同級生と遊んでいた。

具志堅浩文さん

具志堅さん
「近所の墓の周りで遊んでいたら、石が積んであるところがあったんです。その石をどかすと穴があって、不思議と中から熱い風が吹いてきました。中に何かあるんじゃないかと思って、一緒にいた同級生の父親に知らせたんです」

行政機関などが、戦争が激化した際の避難場所を探していた時期の出来事だ。壕の話は瞬く間に広まり、警察と村役場が使いたいと申し出てきた。

壕の中には四角い石を積み上げた台座のような構造物が残されている。この場所は村長の寝床として使われた可能性が高いという。

警察と村役場が壕を使うことになったため、避難を許された住民は、地権者など20人ほどに限られた。広く平らな空間は警察と役場が使い、住民は足元の悪い斜面に追いやられた。

具志堅さん
「地域の大人たちは悔しい思いをしただろうけどね。警察や役場の人に追い出されて、そこをとられたというのは大変苦しい思いをしたはずですよ」

4月にアメリカ軍が上陸し、5月、戦線が首里に及ぶと、残された住民も旧日本軍に壕を追い出された。

地域の戦争を語り継ぎたい

いま、繁多川ではこれらの壕の保存や継承に向けた取り組みが始まっている。きっかけは、長年、繁多川の戦争について聞き取りなどを行ってきた地元の郷土史研究家、知念堅亀さんが去年、87歳で他界したことだ。

知念堅亀さん

知念さんは生前、沖縄戦で亡くなった繁多川の人々がどこで最期を迎えたのか詳細な調査を行うなど、地域の戦争を克明に記録し続けた。戦争体験者だった知念さんはみずからの体験を語ることもできたし、その体験ゆえの思いも強かった。

しかし知念さんが亡くなったことで、地域として今後、どのようにして戦争の歴史を伝えていくのかが問われた。

現在、取り組みの中心を担うのは79歳の柴田一郎さんだ。戦争当時の記憶はないが、知念さんのことを「師匠」と慕い、知念さんが残した膨大な資料をもとに、その研究や語り継ぎを続けたいと考えている。

柴田一郎さん

柴田さん
「去年(知念さんが亡くなったあと)、知念さんがやりたかったことで、まだやってなかったことは何かと話し合いをしたんですよ。知念さんはまだ埋もれていることがあるんだと、提案し続けていたんです。将来に向けて、忘れてはいけないことがあるんだと」

戦後77年 新たな証言も

取材を続けていたある日、柴田さんたちのもとに新たな情報が寄せられた。「新壕」に避難していた数少ない住民の1人が、今も繁多川に住んでいることが分かったのだ。

男性の名前は金城廣さん。父親は壕の土地の管理をしていた人物で、新壕に避難していた住民の一覧にもその名前は記されていた。生前に知念さんが作成した資料だ。

柴田さんたちは早速、聞き取りのために金城さんの自宅を訪ねた。

右端が金城廣さん

その結果…残念ながら85歳の金城さんは沖縄戦当時まだ幼く、壕の中の様子はほぼ記憶にないとのことだった。

ただ、ある興味深い証言も飛び出した。それによると、新壕は当初「ミーゴウ」ではなく、金城さんの屋号「ミージ」からとって「ミージ壕」と呼ばれていたというのだ。

柴田さんは、驚きを隠せず身を乗り出した。「新壕」は子どもたちによって「新しく」発見された壕であることからこの名前になったと考えられてきた。名前の由来をめぐる新たな証言だ。

柴田さん
「非常に新鮮な印象を持っていますよ。まだ新しい事実が出てくるんじゃないかなという感じがしています。与えられた機会は一生懸命勉強して伝えていきたいと思います」

思いがけない収穫に、柴田さんは今後の活動への意欲をさらに強めているようだった。

語られなかった壕の記憶伝える

柴田さんたちは壕についての調査を行う一方で、壕を巡る平和学習の案内をしたり、安全に戦跡を見てもらえるよう、周辺の草刈りをしたりするなど、より多くの人に地域の歴史に触れてもらうための努力も続けている。

平和学習

繁多川に残る壕の数々を追われた住民たちは、その後、南部など各地を転々とし、命を落とした人も多い。先述の具志堅さんも南部の糸満まで逃れた際、叔母を失っている。人々にとって、繁多川の壕は戦場を逃げ惑った壮絶な日々の記憶の起点となった場所だ。

具志堅さんはこう語っていた。

具志堅さん
「戦後、私も地域のほかの人たちも、避難壕については話題にしてこなかったんです。あまりにもつらいから」

住宅街の地下に眠るのは、こうして人々が戦後、心の内にとどめてきた痛みだった。

77年が経ったいま、その記憶を掘り起こし、伝え残していく作業が地域の人々によって確実に進められている。