終戦77年 発見された日記に込められた学徒の思い

終戦77年 発見された日記に込められた学徒の思い(2022/8/18 福岡局カメラマン 野口真郷)

「学徒出陣」

太平洋戦争では多くの元学徒が徴兵されました。その数は10万人以上とも言われています。

なぜ国の将来を支える元学徒まで、戦地に駆り出されることになったのか。終戦から77年のことし2月、その当時の大学生の心の内を知ることができる貴重な資料が、福岡市で見つかりました。

元学徒が残した大量の日記。そこに記されていたのは、「学業を続けたい」という情熱と、それが許されなくなる現実の間で苦悩する心の内でした。見つかった日記から今の私たちへのメッセージを探りました。

元学徒が残した日記

京都大学の元学徒_秀村選三さんが残した日記

80冊以上の古びた日記。表紙がボロボロのものもありましたが、大切に保管されていました。

そこには、当時の大学生が戦争に巻き込まれていくまでの過程と揺れ動く心情が克明に記されていました。

1943年7月29日の日記

(1943年7月29日の日記)
「『国滅びて何の学問ぞ』と言い『志願せぬのが不思議だ』と言う」
「学問があまりにも生命のなく思われるのは寂しいことだ」

太平洋戦争中、軍隊へ入る直前に書かれた日記には学問が軽視されていることを嘆く思いがつづられています。

京都大学に通っていたころの秀村選三さん

書き残したのは秀村選三さん。去年4月に98歳で亡くなりました。

福岡市出身で、京都大学在学中に学徒出陣。海軍の突撃部隊に所属しましたが生還し、戦後は大学教授として教壇に立ち続けました。

この日記は秀村さんの自宅の書庫で見つかりました。案内してくれたのは息子の研二さんです。

父から戦時中の話は聞いていたそうですが、今回発見された日記は見たことがありませんでした。

大学進学前の志

旧制高等学校に通っていたころの秀村さん

太平洋戦争の開戦前、当時高校生だった秀村さん。日記には、まだ学生生活を満喫する様子が書かれていました。

(1941年1月7日の日記)
「ぶらりぶらりと書店をのぞき、フルーツパーラーで奢(おご)ってもらいシュークリームを買う」

その11か月後、太平洋戦争が開戦。当日の日記からは日本軍の活躍に高揚する様子が見てとれます。

(1941年12月8日の日記)
「遂(つい)に来たるべきものは来た!俺たちは高校生としてしっかり背負わなければならない」

当時、満20歳以上の男性が徴兵され次々と戦地に送られていきました。大学などの高等教育機関への進学率は、当時3パーセントほど。

国の将来を支える貴重な人材と見なされていた大学生や高等専門学校生は、年齢制限はあるものの卒業まで徴兵を猶予されていました。

開戦の翌年、京都大学で経済学を学び始めた秀村さん。自分の役割は学問を通して社会や人の役に立つことだと感じていました。

(1942年2月8日の日記)
「大学3年間経済史の勉強をやりたい、そして、ほんとに歴史を創造する流れの中に身を置きたい、人が何といおうとも大学でほんとに好きな学問に打ち込んでやりたい」

戦況悪化で揺らぐ学びの意志

1942年繁華街に掲げられたスローガン

しかし1942年6月ミッドウェー海戦での敗戦をきっかけに、戦局が悪化の一途をたどります。日本軍はアメリカ軍との圧倒的な戦力差を前に各地で苦戦し深刻な兵員不足に陥っていきました。

街なかでは「すべてを戦争へ」と書かれた看板が掲げられ、新聞には「無自覚学生は学園から閉め出せ」、「学徒よ今こそ起て」などの勇ましさを求める声が並びました。

戦況の悪化に伴い、徴兵を猶予されていた学生も戦地に行くべきだという世論が高まっていたのです。

そうした世の中の空気に、秀村さんも学び続けることへ後ろめたさを感じるようになりました。

(1942年10月24日の日記)
「日本は危機に立っている。ひとり経済史を勉強とは何だ。一体現実に何の意義がある。ぐずぐずしていれば国滅ぶ。国滅ぶ」

徴兵猶予停止 死を覚悟

京都大学に通っていたころの秀村選三さん

1943年9月。当時の東條英機首相は、理工系や医学部など一部をのぞき、学徒の徴兵猶予を停止することを発表しました。

(1943年10月3日の日記)
「ペンを捨て剣を執(と)る・・・」

大学入学からわずか1年あまり。秀村さんも卒業を待たず軍隊に入ることになったのです。

道半ばで途切れてしまった学問への思い。日記には学問をしたいという思いと戦争への傾斜を深める世相の間で葛藤する記述が増えていきます。

(1943年10月2日の日記)
「何か嬉しさと共に気が沈むのを覚ゆる生命が惜しいか学問を捨てきれぬのか、よくよくも業(ごう)の深い自分ではある」

特攻に散った親友

京都大学の学友とのお別れ会

この写真は学徒出陣が決まって京都大学の友人とお別れ会を開いたときのものです。前列の右端が秀村さん、その隣が同郷の親友、林市造さんです。

秀村さんは海軍に入隊し突撃部隊に配属されました。ベニヤ板の特攻艇「震洋」を先導する魚雷艇の乗員になります。

そして林さんは神風特攻隊に配属されました。特攻は太平洋戦争末期、兵力の減少と圧倒的な戦力差の中で考案された敵機への体当たり攻撃です。

短い訓練期間と不十分な装備のまま多くの学徒が特攻に駆り出され、命を落としました。秀村さんは訓練を続け本土決戦に備え、出撃直前に終戦を迎え生き延びました。

しかし親友の林さんは1945年4月鹿児島県沖で特攻し戦死しました。

悔いを抱えた戦後

秀村選三さん

終戦後、秀村さんは経済史の研究に没頭し大学教授を務めるなど、亡くなるまで学問の道を歩みました。

戦後、つづった日記には亡くなった林さんのことを思う記述が目立ちます。

(1946年1月3日の日記)
「あの若い情熱を秘めて散って行った友を思い出し急に涙が滲(にじ)んだ」

(1946年8月9日の日記)
「林たちが斃(たお)れた今日、私はただ社会のため、人の世のために何等(なんら)かの意義あるものを為したいと思う」

そして日記に何度も記されていたのは、勇ましさを増していく社会にあらがうことができず、無謀な戦争に飲み込まれていったことへの悔いでした。

(1947年11月3日の日記)
「私たちは純な気持ちで国家の危機を思いあぁまでして飛び込んでいったのにその真相は何であったか。各自の責任を思え。余りにも弱く、甘く、乗せられてしまったのだから…」

1947年11月3日の日記

生前、秀村さんは学徒出陣したときの思いについては、息子の研二さんにほとんど語っていなかったそうです。

研二さんは今回見つかった日記を通して初めて父の心の内を知ることができたと話していました。そして秀村さんがよく語っていたという言葉を教えてくれました。

(息子の秀村研二さん)
「『戦争を知らない人たちが勇ましいことを言うんだ』っていうことはよく言っていました。今の時代生きていたら、ロシアによる軍事侵攻に対して多分言いたい事はたくさんあっただろうなと思います。そういう世の中の動きに対しては声を上げないといけないということは常日頃言っていたので、やっぱりそれは注意していかなきゃいけないかなと思いますね」

日記は秀村さんが教べんを執っていた九州大学などへの寄贈を検討していて、日記を通して多くの人に戦争の実態を知ってほしいということです。