壁のあちこちに落書きが描かれ、荒れ果てた建物。
京都府舞鶴市の山奥にあるその建物は、かつて旧日本海軍の重要な施設でした。
しかしその場所でどんな人たちが何を作っていたのか、地元でも知る人は多くありません。
当時この施設で働いていた人の貴重な証言から、知られざる施設の全貌に迫ります。
太平洋戦争中、京都府舞鶴市は旧日本海軍の重要拠点で、舞鶴港の周辺には造船所など多くの軍事施設がつくられていました。
目指す建物は、港から山側に7キロほど離れた朝来(あせく)地区にあります。
生い茂った草木が道をふさぐ険しい山道を進んだ先に、ツタや木の根に覆われた建物が見えてきました。
かつてこの場所は「第三火薬廠(しょう)」と呼ばれていました。
1941年に建てられた旧日本海軍の火薬の製造工場で、砲弾や魚雷などに使われる火薬が作られていました。
敷地面積は約600万㎡。
およそ300の施設が並び、5000人が働いていたと言われています。
ほとんどの施設が戦後に解体され、今は11棟だけが残っています。
今回、特別に許可を得て中に立ち入ることができました。
内部は一面に雨水がたまっていますが、建物には大きな損傷はなく頑丈な造りであることがわかります。
火薬の製造で使われていたとみられる金属製の排気口がさびたまま残されていて、当時の様子を物語っています。
さらに山道を進むと、ひときわ大きな建物がありました。
「覆土式(ふくどしき)火薬庫」です。
製造した火薬を保管するために使われていて、奥行きは50m以上あります。
屋根の上には土が盛られ、敵軍の飛行機に見つかりにくくなっています。
またコンクリートの壁が二重に設けられていて、爆弾を落とされても中にある火薬への誘爆を防ぐ構造になっています
。
20年近くにわたって地元で第三火薬廠を研究してきた関本長三郎さん(79)は、当時の火薬製造の規模や技術を知ることができる資料的価値の高い場所だと言います。
(関本長三郎さん)
「壁の厚さは40㎝以上あり、現在の一般的なコンクリートの建物と比べてもはるかに頑丈です。火薬廠は全国に3か所作られましたが、この規模で残っているのは舞鶴だけで大変貴重な戦争遺構です」
戦時中の姿を今も色濃く残す第三火薬廠の建物。
しかし軍の機密情報が漏れるという理由から、資料のほとんどが廃棄されています。
この施設内で何が行われていたのか。
さらに取材を進めると貴重な証言にたどり着くことができました。
舞鶴市に住む小坂光孝さん(92)は、中学3年生だった1945年に第三火薬廠で働いていました。小坂さんと同じように第三火薬廠に学徒動員された学生は1300人以上にのぼりました。
当時は沖縄戦が激化していた時期で、戦況が日々悪化していく中での作業でした。
(小坂光孝さん)
「『お前たちの働きで沖縄戦の勝敗が決まる。』と叱咤激励されて、一生懸命やったのを覚えています」
小坂さんは1枚の貴重な写真をみせてくれました。
そこには当時の作業の様子が写っていました。
危険な火薬を扱うにも関わらず手作業で行っていました。
小坂さんは作業していた時のことを今でも覚えています。
(小坂光孝さん)
「この火薬は手についたら真っ黄色になって、ものすごくかぶれてしまう。そんな火薬がついた手で顔などを触ってしまったら体じゅうがかぶれてしまって、全身かゆくてかゆくてたまらない」
当時、海軍が製造していた火薬には、海外ではほとんど用いられていない強い毒性を持つ原料が使われていました。
しかし物資不足から安全な原料を調達することができず、危険な火薬を使い続けていました。
この火薬を使っていた兵器が、人間魚雷の「回天」です。
魚雷に人が乗り込んで操縦し、敵の軍艦に体当たりする特攻兵器です。
その回天の弾頭に火薬を詰め込む重要な作業を、小坂さんたちは行っていました。
回天は当時の海軍にとって最重要機密だったため、小坂さんたちはその兵器の役割を全く知らされなかったと言います。
(小坂光孝さん)
「『詳しくはお前らは知らんでもええ、ここでしていることを親にもしゃべったらあかんぞ。』と言われて。人が乗って帰ってこられずに敵に突っ込むしかない、そんな兵器だとは全く知りませんでした。みんなが動揺するような話は絶対しないように抑えつけていたんでしょうね」
都合の悪い事実を徹底して隠されてきた第三火薬廠の実態。
そのことを小坂さんが強く感じた出来事がありました。
第三火薬廠での作業中に、同級生がトラックで運搬していた回天に挟まれ死亡する事故が起きてしまいました。
しかしその死は小坂さんたちには伝えられず、詳しく知ったのは戦後になってからでした。
(小坂光孝さん)
「きちんとロープをかけていなかったために、急ブレーキで荷台に積んだ回天が倒れてきて亡くなったそうです。そういう話は上からは全然伝わってきません。学校で葬儀をしたみたいですが、それすら僕たちが気づかないうちにされました。学問を途中でやめて、あそこで死んでどんなに無念な思いだったか。2度と繰り返してはならないと思います」
学生が理不尽な環境で働かされた第三火薬廠。
長い年月を耐え、残ったこの建物は、戦争の歴史を知らない人たちによって荒らされています。
戦後、敷地は国有地となりいくつかの建物は取り壊されずに残りました。
しかしこれまでほとんど活用されず、戦争の歴史を正しく伝えられることはありませんでした。
今年の夏も、小坂さんは犠牲になった仲間たちの慰霊祭に足を運び、第三火薬廠での体験を語りました。
当時のことを知る人も高齢になり、参加する元学徒の数は年々減っています。
(小坂光孝さん)
「本当に何か消されていくような思いがします。それを食い止めないといけない気持ちです。(第三火薬廠の)建物はあと何十年も残るでしょうから、その場所に集まる人たちが、そこで何があってどんなものを作っていたかという歴史を引き継ぎ平和な日本を作る。そんな場になってくれたらと願います」