101歳 レイテ戦の生き残り 体験を手記に

101歳 レイテ戦の生き残り 体験を手記に(2022/8/14 映像センター カメラマン 早川きよ)

フィリピン群島のほぼ中央に位置するレイテ島。リゾート地として知られるセブ島から高速船で2時間半、観光地化されていない静かな島です。

フィリピン・レイテ島

太平洋戦争末期、当時日本が占領していたこの島にアメリカ軍が上陸して激戦地となりました。

アメリカ軍との壮絶な戦いと飢餓で、大半の将兵が命を落としたと言われています。

この戦場から生還した松本實さんは、101歳になった今、レイテ戦での体験を書き続けています。松本さんが伝え、残したい記憶とは。

フィリピン・レイテ島の戦い

1944年11月1日 レイテ島に上陸する第1師団

1944年(昭和19年)10月、日本軍は敗勢を盛り返そうとレイテ島を決戦場に選び、当時の小磯國昭首相はレイテ島の戦いを「日米の雌雄を決する天王山」と位置づけました。

日本軍は急きょ、陸軍の精鋭部隊の第1師団1万3000人を派遣、松本さんも師団副官(師団長の秘書役)としてレイテ島に上陸しました。

当時のレイテ島周辺は、すでにアメリカ軍に制空権も制海権も握られていました。

日本軍は武器や食料を補給できず、圧倒的な戦力差の前に、この年の暮れには壊滅状態となりました。

第1師団を含む、派遣された8万4000人のうち9割以上の8万人が命を落としました。

生還した松本實さん 101歳

入隊時の松本實さん

松本さんは1920年(大正9年)に、今の東京・新宿区にある、きりだんす店の3男として生まれました。

20歳の時に陸軍の第1師団・野砲第1連隊に入隊します。

野砲とは野戦で使う大砲の事で、当時は馬で引くことが多かったため、馬に触れる任務につきたいと思っていた松本さんには望み通りの配属だったと言います。

野砲第1連隊に入り馬に乗る松本實さん

入隊直後に旧満州(今の中国東北部)に渡り、幹部候補生として将校に選抜されました。

レイテ戦の記憶を手記に

手記

松本さんは去年の夏から戦争での体験を、手記にまとめはじめました。

(松本實さん)
「(戦友と)生死をともにしたレイテ戦だけは忘れることはできません。レイテがこんな戦争だったんだと記録に残したいと思ったんです。書いておけば、何かの時に役に立つかなと思って」

松本實さん

この1年間、毎日のように部屋にこもって書き続けています。

手が震えるため、手書きではなくワープロで、忘れられない記憶をつづります。

1944年11月2日 レイテ島上陸の翌日

(手記より)
『米軍の集中砲撃が始まる。すぐ近くで兵のうめき声がする。匍匐(ほふく)で行くと兵が倒れ、背を破片で切られ私では手がつけられない。初めての戦死者を見る。』

事前の情報では「先遣部隊がアメリカ軍をおさえている」と聞かされていました。

しかし戦場では、アメリカ軍との圧倒的な戦力の差を目の当たりにします。

レイテ島・リモン峠

レイテ戦で最大の激戦地となった「リモン峠」。

島の南北を結ぶ幹線道路が通り、戦略上重要な意味を持つこの峠をめぐって、11月から12月にかけて激しい戦闘が繰り広げられました。

(手記より)
『11月13日に主力が米軍多数の砲撃を受ける。攻撃で1、3、4の大隊長戦死される』

第1師団は50日間に渡ってこの峠を守りました。

しかしその引き換えに、派遣された1万3000人の将兵のうち、1万人が命を落としました。

この戦闘で、松本さん自身も大けがをします。

(手記より)
『12月20日。集中攻撃があり3人で壕に入る。迫(迫撃砲)の弾が丸太に当たり、右の下士官の大腿を貫通、左の兵は腹部に破片が当たり、 私は 右足の土踏まずを削がれる。2人に「動くな そのままでおれ」と言う。軍刀を杖に這い出すともう誰もいない』

何とか司令部にたどり着いたものの、雨のように降り注ぐアメリカ軍の砲弾の中、2人を助けに戻ることはできませんでした。

「そこにいろ」と命じておきながら…。

「生き残った者の責務だから」

松本さんは、今は娘と孫の家族と暮らしています。

毎朝、自宅の仏壇と神棚に手を合わせ、戦友の冥福を祈る事から一日が始まります。

戦後、松本さんたち第1師団の生還者は、戦死した日時が確認できない多くの戦友の命日を7月1日としました。

そして、毎年この日には浅草寺に、またレイテ島に上陸した11月1日には靖国神社に、欠かさずに慰霊のための参拝をしています。

それが生き残った者の責務だと言います。

孫に写真を見せる松本さん

(松本實さん)
「私は今こうやって家族と一緒に生活できて非常に幸福ですけど、戦友たちがですね、本当に気の毒だと思っています。みんなですね、家族を内地に残して1人だけで亡くなられた、その気持ちがね…。だから少しでも現地に行って、頭を下げて慰霊を続けたいと思っているんです」

レイテ島で慰霊をする松本さん 2019年12月

松本さんが何よりも大切にしているのがレイテ島への訪問です。

戦後、松本さんには家族ができ子や孫に恵まれましたが、戦友の多くは20代前半で独身のままこの世を去りました。

戦死した仲間の魂を慰めることができるのは自分だけになってしまったと、新型コロナウイルスの感染が拡大する前は、毎年のようにレイテ島を訪れていました。

「迎えに来たぞ!」

レイテ島で遺骨収集 1967年12月

松本さんが戦後初めてレイテ島を訪れることができたのは1967年、終戦から20年以上がたってからでした。

当時の厚生省が行った遺骨収集に案内役として参加しました。

約100万人の国民が戦争の犠牲になったフィリピンでは、反日感情が強く、戦後しばらくは旧日本軍の軍人の入国が認められていなかったのです。

久しぶりに訪れたレイテ島は、松本さんが戦時中に見た、焼けて地形があらわになった景色とは全く違いました。

草木が生い茂るジャングルを、現地の人の証言をもとに1週間歩き回りました。

松本さんが残した当時の記録には、この時だけで2495体の遺骨を収容したと書かれています。

中でも忘れられないのは、5人の兵士の遺骨を見つけた時のことだと言います。

積まれた石に身を隠すように、地面に伏せて機関銃を構えた状態で白骨化していました。

そこだけは戦闘が続いているように見えました。

20年以上、骨になっても銃を構え続けていたのです。

「迎えに来たぞ!」と、松本さんは夢中になって骨を集めたと言います。

(松本實さん)
「収集している時は、一生懸命、夢中になって集めているのですが、焼く時の気持ちはもう口ではちょっと言うのは難しい。もう心の中から『あー、これでお別れだな』という感じがして。私の仲間がね、骨になっちゃっているんでそれが本当に辛かった」

死ぬまで慰霊を・・・

レイテ島で慰霊する松本實さん 2019年12月

松本さんが最後にレイテ島を訪れたのは、2019年の12月、99歳の時です。

新型コロナウイルスの影響がなくなったら、またすぐにレイテ島に行けるようにと、ベッドの横には神社のお札や守り矢など、慰霊の品をまとめた袋が置いてあります。

取材中も、レイテ島で眠る戦友に「会いたい」と何度も話していました。

「“見殺し"にしてしまった」

慰霊が自分の責務だと言う松本さんには、レイテ島に仲間を置き去りにしてしまったという、つらい記憶があります。

1944年(昭和19年)の暮れ、日本軍はレイテ島の西岸の山に追い詰められていました。

1万3000人で上陸した第1師団は、この時すでに2700人ほどに。

食糧も武器もなく、じりじりと死を待つだけの状況が続く中、松本さんたち第1師団は、隣のセブ島への移動を命じられます。

しかし使える船は数隻しか残されておらず、全員が乗ることはできません。

松本さんは脱出する人員に入りましたが、約2000人は島に残される事になりました。

(松本實さん)
「はっきり言ってしまえば“見殺し"にしてしまった格好です。戦死された連中がいて、私が生きているわけです」

レイテ島を離れる直前、松本さんは島に残される部隊をたずねました。

松本さんが入隊してから3年半、苦楽を共にしてきた戦友がいる野砲連隊です。

(松本實さん)
「その時に、私の知っている連中が全部いましたけどね。『もうお別れだぞ』と口では語らず。みんな、顔を見ただけでね。もう別れるのは、はっきり分かっているんです。もう死ぬしかないのは分かっているんです。私は、誰にも『来いよ』とは言えない」

敵に見つからないように夜の闇に紛れて海岸から脱出する時、崖の上で“のろし"を上げて、船を誘導する危険な役目を果たしてくれたのは、置き去りにされる野砲連隊の仲間たちでした。

松本さんが知る限り、野砲連隊でレイテ島から生きて帰ってきた人は1人もいません。

戦友との思い出ー同郷で話が合った 難波中尉

手記には、その野砲連隊の戦友との思い出が詳細に記されています。

座っているのが松本實さん 左後ろが難波榮一中尉

難波榮一中尉。

実家が同じ東京で商売をしていたことから話が合ったと言います。

難波中尉は部隊と司令部の連絡係でしたが、戦死した中隊長の代わりに前戦に出ることになりました。

(手記より)
『12月 同期の難波中尉が突然訪ねて来た。同期の小林中尉の戦死で代わりに中隊長に行く(中隊長として前線に行く)と寄ってくれる。『気をつけろ』と別れる。

翌日の夕方『副官殿手紙です』と(手紙が)届く。見ると難波中尉の通信紙に、『負傷した 野病(野戦病院)に行く 武運を祈る」と書いている。別れに来てくれた』

鈴木兵長 正直な海の男

「鈴木兵長」

「消えちゃっているんですよ」と、松本さんが見せてくれた同期の鈴木兵長の写真。

松本さんがレイテ島に渡る前に撮影し、いつか本人に渡そうと戦場でも持ち歩いていたものです。

鈴木兵長は千葉県出身の漁師で、がっちりとした体型は「誰が見ても漁師という感じ。正直な海の男だった」と松本さんは言います。

(手記より)
『15日、鈴木兵長が突然、私の居る閣下(師団長)の壕に来る。リモン川渓谷側で(自分たちの陣地に)「アメリカ兵が陣地を構築している」と知らせに来てくれた』

鈴木兵長は、部隊に危険が迫っていることを司令部に知らせようと、顔見知りの松本さんを探し出して、自分が見たことを詳細に伝えました。

松本さんは鈴木兵長を連れて作戦を決める参謀の元に行きます。

しかし現場の状況を把握していない参謀長は「何かの見間違いだろう」と笑って信じようとはせず、「ざれ言を言うな」と鈴木兵長を叱責し追い返しました。

その後、鈴木兵長の部隊は全滅したといいます。

手記には戦場の理不尽さに対する松本さんの静かな怒りがつづられています。

3年半 訓練をともにした戦友たちと

(手記より)
『前戦の状況が何も分からない軍参謀長が平気で命令を出し、責任を感じない上官で苦労するのは末端の者です』

(松本實さん)
「今ニュースを見ていちばん嫌なのは戦争の状況です。自分でも受けていますからよく分かります。いまのロシアの戦争だって、末端のいちばん先頭の兵がいちばん先に戦死するんだと思います。戦争だけはやりたくないです」

手記に込められた“願い"

目の前で仲間を失った時の絶望、戦場の不条理に対する怒り、戦友を置き去りにしてしまったという罪悪感。

手記には、戦後77年がたっても忘れられないレイテ島での記憶とともに、松本さんの心からの願いがつづられています。

(手記より)
『レイテ決戦の体験を残したいと下手な内容で、表現がまずく、申し訳ありません。国のために戦死された、ご遺族に申し訳なく思います。次の世代のために、国土を戦場にしないでください。世界の平和を願っております』