東日本大震災の津波で大きな被害を受けた島に去年、特別な郵便局が作られました。自分の心のうちを手紙に託して郵便局あてに送ると、見知らぬ誰かのもとへと転送されるのです。
この夏、この郵便局に寄せられた1通の手紙に書かれていたのは、忘れ去られようとしている島にまつわる戦争の記憶でした。
宮城県東松島市の宮戸島に、平成29年12月、ある特別な郵便局が、1年間の限定で設置されました。
津波で被災して使われなくなった港の倉庫を改修して作られ、名前は「鮫ヶ浦水曜日郵便局」といいます。
週の真ん中の水曜日に起きた日々の何気ない日常や、その時感じた誰かに知ってもらいたい思い。
手紙につづってこの郵便局あてに送ると、担当のスタッフが仕分け、同じように手紙を書いた別の誰かの元へ届く仕組みです。
これまでに3000通を超える手紙が寄せられています。
山形県の50代からの手紙:
「福島で震災に遭われ、山形に避難して、小さなパン屋を始められたご夫婦に、私の方が元気をもらっていることに気付きました。天災は突然にやってきて、時に避けられないこともあるけど、今、目の前にあるささやかな当たり前の生活を心に留めることが大切なのだと思います」
宮城県40代からの手紙:
「震災のあと、なくなったものを必死にとりもどすことをした、という話を今まで何人かの方から聞いた。私は取り戻そうとは思わなかった。ただむなしい気分だけただよっていて」
震災に関する話も多く寄せられていて、郵便局は見ず知らずの誰かとつながりを感じ、大切な思いを伝える場となっています。
郵便局の代表 映画監督の遠山昇司さん:
「インターネットが普及した今の時代に、手書きの文字を通して生きている人の手触りを感じ、またそれが、手紙を受け取った人の記憶となって語り継がれていくのが特徴です」
そうした中でこの夏、郵便局に1通の手紙が寄せられました。
手紙より:
「東北では小名浜と宮戸島の2か所が震洋の基地で約200人の隊員がいました。湾は入江も多く、敵の攻撃を受けにくい場所として選ばれた事と思います」
手紙を書いたのは、郵便局がある宮戸島に住む(89)さんです。
手紙にはこの島が昔、特攻艇「震洋」の基地として使われていたことが記されていました。
「震洋」は太平洋戦争末期、悪化する戦局を打開しようと日本海軍がつくった特攻艇です。
ベニヤ板で作った、全長およそ5メートルのボートに250キロの爆薬を搭載。その小さなボートで敵の巨大な艦艇に体当たりするという無謀な作戦に使われました。
島の岩場に掘られた横穴は震洋を隠すために作られた格納庫の跡で、その数は11本、長いもので50メートルにも及びます。
本土決戦に備えて、全国各地に基地が作られ、宮戸島は最後の146番目の部隊が置かれたのです。
当時15歳の学生だった千葉さん。現場に基地があったことを知らされたのは、戦後になってからでした。
軍事機密だった震洋の基地に近づくと、兵隊からスパイ扱いされるため、近づけなかったといいます。
戦後、千葉さんは地元の戦争の歴史を後世に残そうと、震洋の資料を集め、調べてきました。
しかし、東日本大震災の津波で千葉さんの自宅は流され、記録も全て失ってしまいました。
被災し、島を離れることを余儀なくされる人も多く、島の人口は半減、小学校も廃校になってしまいました。
このままでは島での戦争のあとが忘れられてしまう。なんとか記憶だけでも次の世代につなぎたいと、千葉さんは郵便局にあてて手紙を書きました。
戦争末期の8月9日。宮戸島にも爆撃機による空襲があり、4人が犠牲になるなど島の人たちも本土決戦が近づいていることを感じていました。
その後、終戦を迎えたため、宮戸島の基地から震洋が出撃することはありませんでした。
しかし震洋の部隊全体では南方の前線に送られるなどした2500人あまりが命を落としたとされています。
千葉均さん:
「震洋の隊員は、人間ではなく1つの道具として扱われていた。行けば必ず死ぬんだから。命が1つのモノとして扱われる。戦争というのはそういうものです。そのことを戦争を知らない若い人達に伝えたい」
ことし8月15日の終戦の日は、水曜日。奇しくも、73年前の終戦の日も、水曜日。
戦争を2度と繰り返してはいけないという、73年間抱き続けてた思い。
千葉さんは、戦争を体験していない次の世代につなごうと、水曜日郵便局にあてて手紙を書きました。
手紙の最後は、こう締めくくられていました。
千葉均さんの手紙:
「戦争は何も得ることはなく、いたずらに人命を軽んじ、多くの人に悲劇を与えるものであり、後世のためにも私は反対です」