98歳 シベリア抑留語り続ける

98歳 シベリア抑留語り続ける(2018年8月16日 松江局 須田唯嗣記者)

終戦後、旧日本軍の兵士はシベリアなどに抑留され、過酷な労働を強いられました。この体験を98歳になった今も語り継ぐ元兵士が、島根県吉賀町にいます。戦争ほど悲惨なものはないと訴え続ける男性の姿を見つめました。

98歳の今も講演活動

島根県吉賀町に住む野村定男さん(98)は第二次世界大戦中、満州で当時のソビエト軍と戦った当時の体験を、直接語ることができる数少ない存在です。

野村定男さんの8月の講演より:
「日本の若者、陸海軍の将兵が230万人も戦死しました。皆さん、この数字どう思いますか。島根県の3倍の人口よりもまだ多いんですよ。戦争ほど悲惨なことはないですよ」

「ウラジオストク 東京 ダモイ」

野村さんは山口県の農村部に生まれました。貧しかった当時の村の人たちは満州への移住を決断し、22歳の野村さんも、満州に渡りました。

昭和20年、終戦間際に26歳で軍隊に召集されましたが、そこで下されたのは、侵攻してくるソビエト軍をわずか15人の部隊で迎え撃て、という命令でした。8月15日のことでした。

野村定男さん:
「たった15名でね、何千という兵隊と戦うんだからもう分かりますよね、戦死すると。絶対に避けられない、もうみんな覚悟していました」

野村さんが戦闘に臨む直前に日本が降伏し、部隊はソビエト軍の捕虜になりました。移送される野村さんたちがソビエト兵から繰り返し聞かされたことばがありました。

「ウラジオストク トウキョウ ダモイ」

このまま日本に帰れるという意味でした。

野村定男さん:
「ソ連の兵隊が皆言うんですよ。ウラジオストク東京ダモイ。どの兵隊も皆言った。日本に帰れるという気持ちもあったんだけど、だまされたんですね、結局」

「こんなところで死んでたまるか」

その後、野村さんたちは極寒の地、シベリアへ移送されました。収容所に入れられ、過酷な労働を強いられる抑留が続いたのです。

野村定男さん:
「いろいろな仕事をやりました。水道管を埋める作業なんかね、11月ごろになったらね、寒いからね、土地も2メートルくらい凍るんですよ。それを掘るのが大変でした。食事はね、あずきのおかゆでね、はんごうのふた1杯だけです。おかゆですよ、あずきのおかゆ」

野村定男さん:
「そこで私は栄養失調になったんです。それで入院しました。病院ではね、凍っている死体をね、素っ裸のままを猫車に積んでいるんです。それを見て思ったんです。こんな所で死んでたまるか。絶対生きて帰らないといけないと、一生懸命になってね」

1日でも長く語り続けたい

野村さんが帰国できたのは、終戦から3年後でした。その体験は長い間、胸の内に閉ざされ、帰国後に結婚した妻や息子にも、語ることはありませんでした。

しかし90歳を超えた時、戦地に赴いた仲間が1人また1人と亡くなっていくなかで、気持ちに変化が芽生えます。

悲惨な体験を、みずからが語る必要があると感じたのです。

野村定男さん:
「つらいことはね、もう忘れてしまいたかったですね。それが現代になってもう話す人がいなくなったでしょう。戦争をやらないためにはね、戦争の悲惨さを話さなきゃいけないという気持ちになった」

1日でも長く語り続けようと決めた野村さんは、健康の維持を人一倍、意識するようになりました。毎朝、牛乳を欠かさず飲み、食事も栄養の偏りがないように気を配っています。

また、多くの人に体験を語るため、みずから地域の学校に講演をさせてほしいなどと手紙を書いています。こうした活動で8年前から積み重ねた講演は、島根県や広島県などで20回にのぼります。

「戦争は反対と言い切れる人に」

8月、野村さんは地元、島根県吉賀町の集会施設で21回目の講演に臨みました。

あと半年後には99歳になる野村さんが、張りのある声で訴えかけます。若者や親子連れなど70人が耳を傾けるなか、子どもたちにも理解してもらうため、わかりやすいことばを選びました。

野村定男さん:
「シベリアで抑留された日本の兵隊はね、栄養失調で5万7000人亡くなったんですよ。5万7000人というのはね、甲子園球場、あれが満席に入って同じくらいです」

野村定男さん:
「皆さん、戦争は末代してはなりません。戦争ほど悲惨なものはありません。自分の国さえよければよいという考えは通用しない時代です。そのためには今度は若い皆さんがしっかり勉強して、戦争は反対と言い切れる1人1人になってください。私たちの国は過去に軍国主義の時代があって、戦争は反対でも、それを言えなかったのです」

講演を聴いた人たちは、野村さんの体験を伝えていく思いを語っていました。

小学6年生の女の子:
「もう二度と戦争が起こって欲しくないです。みんなに、妹とかにも伝えたいと思います」

28歳の女性:
「きょう聞いた話を次の世代に伝えていって、戦争は絶対にしたらだめだというのを未来の世代にも伝えられるようにしないといけないと思いました」

戦争の記憶を途絶えさせてはならない。野村さんは命が続く限り、語り続けます。

野村定男さん:
「平和を永遠に保ってもらいたいですね、戦争のない。使命と思っているんですよね。いつまででも健康であるかぎり、話していきます」