広島の被爆者の体験を家族が伝える 家族伝承者制度に時間の壁

広島の被爆者の体験を家族が伝える 家族伝承者制度に時間の壁(2022/08/04 広島放送局記者 福島由季)

生後4か月の赤ん坊が広島駅のベンチで母親におしめを替えてもらっていたその時。突然空にせん光が走りました。

「駅の上に火の竜巻ができた」
「ドーンとすごい音がして、真っ赤な円筒状のものが線路と線路の間に落ちたかのようだった」

8月6日の状況を幾度となく語ってくれた母親は99歳。
あの日の体験を思い出すことも難しくなりました。

「家族伝承者」制度始まる

被爆者の高齢化が進み、平均年齢はことし3月末の時点で84.53歳。前の年より0.59歳上がりました。

原爆資料館を運営する「広島平和文化センター」は、広島での原爆被害を次の世代に語り継ごうと、資料館を拠点に修学旅行生や海外から訪れる人たちに被爆体験を証言する「被爆体験証言者」と、特定の被爆者の体験を伝える「被爆体験伝承者」を毎年、委嘱しています。

ことし4月には、79歳から94歳の「証言者」34人と、27歳から84歳の「伝承者」156人が委嘱されました。

これに加えて新たに今年度から始まったのが「家族伝承者」制度。

被爆者の体験を家族が代わりに伝えるもので、これまで公の場であまり語られてこなかった新たな証言の掘り起こしにつながることが期待されています。

ことし5月。説明会に参加した人たちからは、「家族の体験を伝えられてうれしい」「家族である自分にしか聞けない体験を伝えなければ」と、期待と使命感に満ちた声が聞こえてきました。

一方、肩を落としうつむきながら出口へ向かう女性が気になり、声をかけました。

「私は応募さえできないと、きょう分かったんです。正直ショックでたまりません」

応募をあきらめた被爆者

河野迪子さん

広島市佐伯区の河野迪子さん(77)です。1945年3月に現在の広島市中区で生まれました

生まれた時に住んでいた家は、ちょうど、今のNHK広島放送局の目の前にある交差点のあたり。広島市中心部を東西に横断するおよそ4キロの、現在の平和大通りにありました。

しかし、河野さんが生まれて間もない頃、空襲に備え火災が広がらないよう建物を壊す「建物疎開」の作業のため家は壊されてしまい、爆心地からおよそ1.7キロ離れた場所に引っ越しました。

多くの都市が空襲を受ける中、軍都として栄えてきた広島にもいつ空襲があってもおかしくない。幼い河野さんと母親は、広島市内から50キロほど離れた現在の東広島市にある父親のふるさとに疎開することになりました。

8月6日、父親も仕事を休み、家族3人で早朝から広島駅に向かいました。

河野さん幼少期の写真

午前7時台の汽車に乗る予定でした。しかし、大幅に汽車が遅れ、8時になってもやってきません。

母親は、汽車を待つ間に河野さんをホームのベンチに寝かせて、おしめを替えることにしました。

その時。突然空にせん光が走りました。

原爆が投下されたのです。

河野迪子さん
「原爆がさく裂した時に、まるで何か線路と線路の間に真っ赤な円筒状のものが落ちたようだったと母が言っていました。私はベンチに寝かされたままで、気がついた時にはすすで顔が真っ黒になり、目だけ光らせて泣いていたそうです」

爆心地の方向についていたベンチの背もたれのおかげで熱線を浴びずに済み、河野さんにけがはありませんでした。

母親は首と顔に、父親は背中にやけどを負いましたが、全員が助かりました。

河野迪子さん
「広島駅で母親におんぶされていた2歳の男の子は、やけどで亡くなったそうです。私もね、あの背もたれがなかったらね、同じ運命になっていたと感じました。紙一重ですね」

河野さん一家は、駅のすぐ近くにあった練兵場に避難。時間の経過とともに、爆心地の方向から大やけどで息も絶え絶えの人が歩いてきては亡くなっていきました。

まさに地獄のようでした。

幼かった河野さん自身に記憶はありませんが、母親からたびたび、当時の状況を聞かされてきたといいます。

母親が積極的に体験を話すのは、家族にだけでした。

家族の体験を伝えたい

記憶はなくても、被爆者の1人として、平和のために動きたい。子育てが一段落し50歳を過ぎたころ、河野さんは平和公園や原爆資料館を案内するボランティアとして活動を始めます。

5年前からは市の認定を受け、特定の被爆者の体験を語り継ぐ「伝承者」としても活動しています。

そうしたなか、今年度から「家族伝承者」制度ができると知った河野さん。すぐに説明会の会場へと足を運びました。

河野迪子さん
「やっとできたかと思ったんですね。やっとできるのかと。家族のことも話したいという気持ちが強かったのでああうれしいと」

家族伝承者になるには、まず家族の被爆体験を聞き取ります。次に、それを原稿にまとめます。

原稿の内容について市の担当者が被爆者に確認をします。正確な事実を後世に伝えるためです。

そして、講話の実習にのぞみます。認定されるまでには2年程度かかると見られています。

応募もできなかった

あの日、広島駅のホームで河野さんのおしめを替えてくれた母親は、現在99歳。認知症で、今となっては被爆体験を思い出すことはできません。

河野さんは母親から聞いた体験を詳細に記録してきました。

しかし、制度では市の担当者が被爆者に直接、原稿の内容を確認する必要があるため、応募できないと分かったのです。

「家族伝承者」として認定されなければ、「広島平和文化センター」から委嘱を受け、修学旅行生などたくさんの人に母親の体験を伝えることができません。個人的に話すことはできても、多くの人を前に伝える機会はありません。

河野迪子さん
「本当にがっかりして、落胆しました。やっぱり被爆者の生の気持ちとか声を受け取っている家族の声をもっと聞いて、柔軟性を持って受け入れてほしい」

時間との戦い

応募できた人にも、時間の壁は立ちはだかっています。

7月に行われた研修会の初日、最前列に座っている若者がいました。広島市東区の尾形健斗さん(31)。

尾形健斗さん(31)

応募者の平均年齢は60.1歳。定年後に活動を始めたという人が目立つ中、唯一の30代の応募者です。

介護士として働いている尾形さん。出会った日も夜勤明けで、数時間しか眠っていない状態で熱心に研修を受けていました。

尾形さんは、祖父・昭三さんの体験を伝えたいと応募しました。

昭三さんは77年前、当時16歳でした。原爆投下の翌日、行方不明になった親戚を探すために広島市中心部を歩き回り入市被爆しました。

健斗さんはたびたび祖父の家を訪れ、聞き逃さないように録音しながら体験を聞き取っています。

「当時はね、護国神社の前のほうなんか、死体がいっぱいよ」
「水を飲もうと防火水槽に入ったまま多くの人が亡くなっていた」
「腹がパンパンに膨れ上がった馬が、何頭も転がっていた」

忘れたくても忘れられない体験を、これまでほとんど語ってこなかった昭三さん。

孫の健斗さんには話してくれるといいます。

尾形健斗さん
「私が聞かなければ、もうこの話は埋もれてしまって、なくなってしまった話だと思いますので、それは孫である私にしかできない」

しかし、昭三さんはいま93歳。健斗さんは、時間は限られていると受け止めています。

尾形健斗さん
「一人一人違う体験をしてきたわけで、その一つ一つ決して逃してはいけない話やエピソードがあると思う。限られた時間しかないので、おじいちゃんがこうやって元気でいてくれるうちにしっかり話を聞いて、未来の人たちに話していければと思います」

家族だからこそ語り継ぐことができる貴重な証言を残すことにつながる「家族伝承者」制度。期待の声が上がる一方、「もう少し、早く始まっていたら」と嘆く声もあります。

家族の体験をどうやって語り継ぐか

「家族伝承者」を諦めた河野さん。

ほかの被爆者の体験の「伝承者」として訪れた中学校で、子どもたちに訴えかけました。

「皆さんの中に、家族が原爆にあっておられる方はおられませんか?おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞いてください。あなたの家族の歴史ですから。大切に後世に、次の世代に伝えていってください」

「家族伝承者」として大勢の人たちに母親の体験を伝えることはできなくても、被爆の記憶がない自分に、母親が何度も語ってくれた体験を語り継ぐすべはないか、模索しています。