ロシアの被爆バイオリン 革命も原爆も生き抜いた

ロシアの被爆バイオリン 革命も原爆も生き抜いた(2022/07/27 広島放送局 記者 相田悠真)

ひとりのロシア人男性とともに激動の人生を歩んだバイオリン。
今から100年前に海を渡り、広島にやってきました。

ロシア革命、そして原爆の惨禍を生き抜いたバイオリン。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続く今、私たちに何を伝えているのでしょうか。

亡命貴族が女学校の先生に

セルゲイ・パルチコフさん

バイオリンの持ち主、セルゲイ・パルチコフさんです。
1893年、ロシアの貴族の家に生まれました。
幼いころからバイオリンを習い、大学では法学の学位を取得。
1917年のロシア革命では帝政ロシア軍の陸軍中佐として戦いましたが、祖国を追われ日本へ亡命します。

オーケストラとパルチコフさん(中央)

広島に居を構えたパルチコフさん。妻と3人の子どもたちと暮らしていました。
生活は困窮し、無声映画を上映する映画館でバイオリンを演奏して生計を立てていました。

ある時、パルチコフさんの演奏の評判を聞いた女学校の校長から誘われ、生徒たちに音楽を教えることになります。
学校では女学生だけのオーケストラを結成。当時は大変珍しく、新聞やラジオで取り上げられたといいます。
ロシアから携えてきたバイオリンが、亡命先の広島でパルチコフさんの新たな道を切り開いたのです。

三原霜子さん

当時、パルチコフさんからバイオリンの指導を受けていた女性に話を聞くことができました。広島市に住む三原霜子さん(92)です。
今でもパルチコフさんの書き込みが残る楽譜を大切に保管していました。毎日1時間、厳しいレッスンを受けていたといいます。

三原霜子さん
「寄宿舎の玄関に(パルチコフ先生がやってきて)大きな声で『レッスンさぼっちゃいけません』と。3回ぐらいかなお迎えに来てくださいました。基礎から、バイオリンの持ち方からやってそれがええ具合にできないと、弾く練習はさせていただけなかった。厳しいときにはすごく厳しくて、褒めるときには褒めてくれる。音楽に対して強い気持ちを持ってらっしゃったんだと思います」

祖国に帰れず 広島で被爆

女学校の教職員名簿

女学校の教職員名簿には1926年から1943年までパルチコフさんの名前が記されています。しかし、それ以降、パルチコフさんの名前は見当たりません。

女学校をルーツに持つ広島女学院大学の資料館の元職員、西原眞理子さんは学徒動員が本格化したことと、ロシア人のパルチコフさんへの監視が厳しくなったことで、女学校を辞めざるを得なくなったと指摘します。

広島女学院大学資料館 元職員 西原眞理子さん

広島女学院大学資料館 元職員 西原眞理子さん
「授業どころではなくなったんですよね。アメリカ人の宣教師の先生は早い段階で帰国していて、ロシア人のパルチコフさんは残っていたんですが、ロシアも戦争に参加して、弾圧が厳しくなり、家も軍部に接収され、引っ越しを余儀なくされてしまいました」

そして、1945年8月6日午前8時15分。広島に原爆が投下されます。

爆心地からおよそ2.5キロの距離にあった自宅でパルチコフさん一家も被爆。
その時のことをパルチコフさんの長女、カレリアさんがアメリカの調査団に証言した音声が残されていました。

パルチコフさんの長女カレリアさんの証言
「一瞬で家が倒壊し何もかもなくなりました。広島城が燃えているのが見えました。薬とわずかな食料だけ持って山のほうへ逃げました」

アンソニー・ドレイゴさん

カレリアさんの長男で、現在、アメリカのカリフォルニア州で暮らすアンソニー・ドレイゴさん(72)にオンラインで話を聞くことができました。
混乱の中でも祖父のパルチコフさんは、決してバイオリンを手放さなかったといいます。

アンソニー・ドレイゴさん
「祖父は潰れた家に何度も入ってようやくバイオリンを見つけたんです。祖父にとってバイオリンは特別なもので、異国での生活を助けてくれるものであり、祖国から持ち出した、祖国そのものであり、そして一緒に原爆を生き抜いた特別な絆を感じていたんだと思います」

その後、パルチコフさん一家は日本を離れ、すでにアメリカにわたっていた息子の元に身を寄せます。

被爆から40年ほどたった1986年。
パルチコフさんの長女カレリアさんが女学校の100周年の式典に出席するため来日します。そこで、すでに亡くなっていたパルチコフさんのバイオリンを寄贈したのです。

よみがえる “ロシアの被爆バイオリン”

安塚かのんさん

その、パルチコフさんのバイオリンの音色を広島市の原爆ドームの前でよみがえらせようというプロジェクトがことし3月立ち上がりました。
演奏するのは広島県出身の高校1年生、安塚かのんさん(15)です。
国内外のバイオリンのコンクールで数々の賞を受賞し、現在は東京の高校でバイオリンを専攻しています。
この2年間、広島原爆の日の前日にあたる8月5日に原爆ドームの前でバイオリンを演奏してきた安塚さん。ことしは被爆バイオリンでの演奏、そしてロシアがウクライナに侵攻をしている中での特別な演奏になります。

演奏するのは「原爆を許すまじ」

ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの街に

1度目は広島、2度目は長崎。3度目の原爆の使用は決して許さないと、被爆者をはじめ多くの人々に歌い継がれてきた曲です。

演奏を3週間後に控えた7月。安塚さんは「原爆を許すまじ」を作詞した浅田石二さん(90)に、詩を作った1953年当時の心境について聞きました。

左:浅田さん 右:安塚さん

安塚かのんさん
「8月5日に原爆ドームの前で演奏をするんですけど、この曲を通して、誰にどういう思いを伝えたいか教えてください」

浅田石二さん
「広島で生まれたわけでもなければ、原爆にも遭っていないのに、この詩を作っていいのかという思いが、ためらいがあった。でも、広島の死者のことを忘れない。原爆で殺された、死者の声を忘れません。忘れないでいきましょうと。歌をつくることが平和を求める大きな運動につながると考えました」

浅田さんはこの曲が「歌われなくなること」を強く願っていると安塚さんに語りかけました。

浅田石二さん
「原爆から人類が解放されること、そうしたらこの歌は無くなるでしょう。歌は歌われないほうがいい。歌われない時代が来ることが世の中をよくする希望だと思います」

安塚さんは、ロシア革命と原爆の惨禍を生き抜いたバイオリンの持ち主のパルチコフさん、そして作詞した曲が歌われなくなることを強く願っているという浅田さんの思いを込めて、バイオリンを演奏したいと考えています。

安塚かのんさん
「(パルチコフさんは)争いに巻き込まれていた中でも音楽を愛して、音楽を教えるという立場でも本当に心から音楽を愛していた。浅田さんとも音楽を通じて平和を伝えられたらいいなっていう立場でお互いに心が通じるものがありました。魂のこもった、平和を届けられるような演奏をしたいと思います」

革命と戦争、そして原爆。争いに翻弄されたバイオリンは広島の町の復興を静かに見守ってきました。
バイオリンを保管してきた大学の資料館の元職員の西原眞理子さんはバイオリンが話せるならどんな旅を語ってくれるのか、いつも考えていたといいます。

西原眞理子さん
「音楽は世界共通のことばですからね。音楽っていうのはある意味、平和の象徴でもありますから。若い方には平和のことを願いながらウクライナとの戦争がちょっとでも早く終わるように願いながら被爆バイオリンの演奏を聞いてもらいたい」

パルチコフさんの孫のドレイゴさんは、ロシアのウクライナへの軍事侵攻が続く今だからこそバイオリンについて多くの人に知ってもらいたいと話します。

アンソニー・ドレイゴさん
「私たちは過ちや過去の歴史から学ばなければまた同じことを繰り返してしまいます。だからこそ、バイオリンがたどった歴史に目を向け耳を澄ますことが重要で、未来を考えることにつながるのです」

パルチコフさんのバイオリン

バイオリンが日本にやってきてから、ことしでちょうど100年になります。
ドレイゴさんによりますと、戦後、パルチコフさんはアメリカ軍でロシア語を教えていたということですが、そのかたわらでいつもバイオリンを弾き、子どもたちにも教え、最期まで音楽を愛し続けたということです。

私(記者)は安塚さんの取材をきっかけに、パルチコフさんにゆかりがある人々にたどりつき、パルチコフさんとバイオリンがたどった数奇な運命を知りました。
そして、バイオリンが今の私たちに語りかけていることを考え続けています。

ロシアのウクライナへの軍事侵攻は終わりが見えず、核兵器の廃絶に向けた道のりも険しいのが現状です。
被爆バイオリンの存在そのものを知ってもらうことが、被爆の惨状や、今ウクライナで起きていることを理解することにつながると信じて、被爆地で奏でられる音色に静かに耳を傾けたいと思います。