ウクライナに抑留 元日本兵の思い“戦争 絶対してはいけない”

ウクライナに抑留 元日本兵の思い“戦争 絶対してはいけない”(2022/04/05 鹿児島放送局 記者 西崎奈央)

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻にみずからの体験を重ね合わせ、心を痛めている人がいます。
「現地の人々は何も悪くない。戦争で大切な人を失い、深く傷つき、戦争を憎んでいた」
鹿児島県の97歳の男性。第二次世界大戦の終戦直前にソ連軍の捕虜となり、ウクライナに移送され、死と隣り合わせの日々を過ごしました。
あれから70年余り。ウクライナでは、今も各地で戦闘が続き、大勢の市民が国外へ避難しています。
戦争の悲劇が繰り返される事態に何を思うのか、話を聞きました。

よみがえる記憶

鹿児島市の池田清治さん(97)は、テレビでウクライナのニュースが流れるたびに、みずからの戦争体験がよみがえると言います。

池田清治さん
「ウクライナの人がかわいそうでなりません。毎日テレビでウクライナのことをやっていると、ずっと聞いているんですよね。あのころのことを毎日思い出します」

ソ連軍の捕虜 死と隣り合わせの日々

戦前、満州に渡ったあと、関東軍に召集された池田さん。終戦直前に、今の北朝鮮でソ連軍の捕虜となりました。

収容所では、仲間が次々と殺されていくのを目の当たりにしたと言います。

資料

池田清治さん
「言うことを聞かないで抵抗したら、(銃で)バンとやられるんですよ。すべて欲しいものは略奪するんですよね。腕時計なんかも寝ていたらむしり取るようにしてね」

池田さんはその後、収容所を転々とさせられました。
貨物列車で最終的に連行された先は、ふるさと鹿児島からおよそ7500キロ離れたウクライナでした。

池田清治さん
「貨車にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、シベリア鉄道をずっと西へ、40日くらい乗りっぱなしで、着いたところがウクライナの東の方になります。町をよく見ると、家は壊れたり、石垣が壊れたり、ひどいありさまでした」

ウクライナ抑留 人々の優しさが生きる支えに

当時、ドイツ軍との戦争で破壊されたウクライナの町。

資料

池田さんは、町や工場の再建に従事させられました。
寒さや飢えに苦しみながら過酷な労働を強いられる中で、同じように戦争で傷ついた現地の人々の優しさが生きる支えになったと言います。

池田清治さん
「ウクライナの人も一緒に働くんで、仲良くなりましてね。ウクライナの人たち、とくにおばさんたちは親切でした。
『ヤポンスキーママ、イエシチ?(お母さんはいるの?)』
『パパ、イエシチ?(お父さんはいるの?)』
『ズダローブィ?(元気か?)』って言うんですよね。
そして『スコーラ、ダモイ(早く日本に帰れよ)』と励ましてくれるんですよ」

再びの戦火 “戦争なんて絶対してはいけない”

あれから70年余り。
ウクライナでは、ロシア軍による無差別的な攻撃で、市民の犠牲が増え続けています。

戦火を逃れ、祖国を追われるウクライナの人々。
池田さんはそうした姿に自身の戦争体験を重ね合わせ、1日も早く平和が戻ることを願っています。

池田清治さん
「ウクライナの人たちが平和に生活できることを心から祈っております。とにかく戦争はいやだ、戦争はするな、それだけですね。もうあと3年したら100歳になりますけど、こうして自分の足で歩いて、自分の口でものをしゃべって、食事をして寝て、こんな幸せなことはないですよ。これが本当の人間の生活で、戦争なんて絶対してはいけない」

“現地の人々は何も悪くない”

先月下旬、池田さんは東京にあるウクライナ大使館に、抑留された経験とともに、ウクライナへの連帯をつづった手紙を送ったということです。

鹿児島に住む自分たちができることは限られているが、戦争は決して許してはいけないと強く訴えていました。

池田さんはソ連兵への恐怖や複雑な感情は今もあるとは言いながらも、「現地の人々は何も悪くない。現地の人々も戦争で大切な人を失い、深く傷つき、戦争を憎んでいた。厳しい生活の中でウクライナの人々の優しさが余計に身にしみた」と語っていました。

いつの時代も市井の人々が国家に翻弄され、戦争の犠牲になるのだと突きつけられる思いでした。

連帯を示すことで、少しでも今の状況に歯止めをかけることとなればと願いながら取材を続けたいと思います。