ネバーギブアップ~未来へ受け継がれる坪井イズム

ネバーギブアップ~未来へ受け継がれる坪井イズム(2022/8/6 広島放送局記者 小野慎吾)

ことしの8月6日は、ヒロシマの核兵器廃絶運動の“象徴”亡き後、初めて迎える1日となる。

去年10月に96歳で亡くなった、日本被団協の元代表委員・坪井直さん。

教育者として、被爆者団体のトップとして、平和教育と核兵器廃絶に人生をささげてきた坪井さんの思い、「ネバーギブアップ」は亡くなったあとも決して色あせることなく受け継がれている。


不撓不屈の精神で核兵器廃絶運動に

広島市の平和公園。

原爆慰霊碑や原爆ドームなどがあり、世界的にも有名なこの場所が、ひときわ大きな注目を集めたのが6年前のことだ。

2016年5月27日、アメリカのオバマ大統領(当時)が訪れた。

「被爆者としては、そのこと(原爆投下)は人類の間違ったことのひとつ。それを乗り越えて、われわれは未来に行かにゃいけん…」

被爆者の代表のひとりとして、大統領と歴史的対面を果たしたのが坪井直さんだった。初めてヒロシマを訪れた現職の大統領に向かって、ありのままの思いを伝えた。

爆心地から1.2キロの場所で被爆し、40日間意識不明となりながらも一命を取りとめた坪井さん。戦後は中学教師として原爆の恐ろしさを語り続け、退職後は被爆者団体の活動に身をささげてきた。

いつも口にしてきたことばが「ネバーギブアップ」。

不撓(ふとう)不屈の精神で核兵器廃絶運動に取り組んできた坪井さんを表すのに、これ以上ないふさわしいことばだった。

坪井さんは去年10月、96歳で亡くなった。その訃報は悲しみを持って国内外を駆け巡った。ただ、坪井さんが生涯をかけて求めた平和と核兵器廃絶への思いは、決して色あせるものではない。

「子どもたちに何を伝えたいかをしっかりもって」

修学旅行生であふれかえっていた6月中旬の平和公園。

6年前のあの日、坪井さんがオバマ大統領に思いを伝えた原爆慰霊碑の前では、その“弟子”でもあるひとりの男性が、中学生たちに語りかけていた。

「君らの周りに戦争はないですか。教室の中に戦争はないですか。“この人とこの人がケンカし始めました”、“この人がこの人をいじめています”。どうしますか。(戦争は)そんな遠くのことじゃないと思わなきゃいけないよね」

松井久治さん

声の主は松井久治さん(68)。中学校の元教師で、現在は平和公園で修学旅行生へのガイドを務めている。

40年あまり前の昭和51年、松井さんは新人の教員として、平和や原爆について関心が高い翠町中学校(広島市南区)に赴任した。

松井さんの担当は数学科。社会科の教師のような知識もなければ、大学で平和教育を学んだわけでもない。若き松井教諭は、教頭として同じ中学校に勤めていた坪井さんに悩みを打ち明けた。

松井教諭
「大学でも平和学習の講義は受けていません。担当は数学ですし、自信がないです」

坪井教頭
「わしも(担当は)数学じゃ。国語だろうと、音楽だろうと、美術だろうと、教科は関係ない。子どもたちに何を伝えたいかというのをしっかり持ってやればいい」

その出会いこそが、松井さんの教師人生を形づくるものだったと振り返る。

松井久治さん
「職員室で結構、遅い時間まで坪井教頭がいて、やんちゃな子どもたちが明かりを見て入ってくるんですよ。普通だったら“何時だと思ってるんだ”という感じになると思うんですが、坪井教頭は“まあ上がれや”って。“卒業してどうするつもりなんや”と坪井教頭が聞くと(生徒が)素直に話をして。坪井教頭のことを信頼しているから、そこまで心を開くんだろうなと、思いましたよね。子どもたちとどう接していけばいいのか、生活自体で吸収させてもらいました」

平和学習に向き合う姿勢

教育者の先輩から「人類愛のような、誰をも抱え込むこと」の大切さを教わった松井さんは、平和学習に向き合う姿勢についてもその教えを受け継いでいる。

当時の坪井さんは、日ごろからこのように口にしていたという。

翠町中学校時代の坪井教頭

坪井教頭
「原爆や戦争の話をすることだけが平和学習じゃない。そこに命の大切さや、人としての生き方みたいなことが入ってこんとだめなんよ」

学校でいえば、ケンカやいじめ…。

身近に起こりうる“戦争”に向き合うことが、結局は大きな平和につながっていくのだと、教師駆け出しのころに教わった松井さん。今は平和公園のガイドとして、坪井さんから学んだ教えを、未来ある子どもたちに伝え続けている。

「空白の学籍簿」に込められた思いとは

坪井さんが願った平和や核兵器廃絶への思いは“形”としても遺されている。

7月上旬、翠町中学校で行われた平和学習。1冊の教材が朗読された。

「家の下敷になって、自分ではどうすることもできず、『助けてー。助けてー。』と叫んでいらっしゃるところに…」

毎年、8月6日を前に行われる翠町中学校の平和学習で、教材となっているのが「空白の学籍簿」。

昭和55年に発行されたこの冊子は、原爆で若くして亡くなった、前身の国民学校の児童たちの遺族の証言などをまとめたものだ。

被爆した人たちが水を求めていたことから、冊子の表紙は水色。

ページをめくれば、77年前にヒロシマの子どもたちを襲った悲劇が、鮮明に描かれている。

『空白の学籍簿』より
「病床で何度も何度も『水をくれ、水をくれ……………』と叫んでいました」
「被爆後どのように死んでいったかも分かりませんし、遺骨さえも見つかっておりません」
「死因は、有毒ガスを吸ったか放射能を浴びたからで、内臓がとけ始めていたからであったらしい」


怒り、憎しみ、悲しみ…。

証言のひとつひとつに、ことばでは言い尽くせない原爆へのさまざまな思いが交錯している。

原爆で亡くなった児童たちの名簿

発行のきっかけは、1冊の名簿だった。原爆で亡くなった児童たちの名簿を、教頭の坪井さんが校内で見つけたが、中を開くと氏名以外の欄の多くは空白だった。

何とか一人ひとりの生きた証しを残してあげたい…。

坪井さんの思いが発端となり、教師と生徒が一緒になって遺族を捜し、地域を歩き回って証言を得る活動を始めた。言うなれば“足で稼ぐ”平和学習だ。

駆け出しの教師として「空白の学籍簿」の編集に携わった松井さんは、坪井さんの思いをこう代弁する。

松井久治さん
「やっぱり坪井先生自身が被爆者で、生死をさまよわれて、どこで亡くなっていてもおかしくない、自分自身が“空白”だったかもわからない。“空白”へのこだわりっていうのは坪井先生も強かったんだろうなと思いますね」

「若い教員の僕は、たまたま生徒会に所属していたもんですから(編集に携わったのは)偶然だったと思うんですけど、この出会いって大きかったなと今になって思いますよ」

発行から40年あまり。翠町中学校では今も、毎年夏に、全校生徒が参加して「空白の学籍簿」の朗読会を行うなど、平和学習の貴重な教材として使い続けている。

「空白の学籍簿」に込められた思いは、歳月を重ねても変わることはない。

広島市立翠町中学校 清水克宏校長

広島市立翠町中学校 清水克宏校長
「坪井先生をはじめ、被爆の体験を後世に語り継がねばならないという(当時の教師や生徒の)強い思いがこうした取り組みにつながったんだと思います。実際に当時の中学生がアポイントを取って、お話を聞かせていただく取り組みをやったところにエネルギーを感じますし、そのエネルギーが、今なおこうして平和を願う取り組みとして、途切れることなく続いていることの要因だと考えています」

次の世代の人たちはどう受け止めているか?

坪井さんが遺した、平和教育や核兵器廃絶への有形無形のメッセージ。次の世代の人たちは、その思いをどう受け止めているのだろうか。

<平和公園で松井さんのガイドを聞いた中学生>

修学旅行の男子生徒
「一人ひとりが互いにわかりあうことが大切だと思いました。平和についてよく考えながら生活して、周りのことをしっかりわかることができる大人になっていきたいです」

修学旅行の女子生徒
「まず小さなことから戦争につながることをやめることで、国どうしの戦いもなくなっていくんじゃないかなと思いました」

<『空白の学籍簿』の朗読を聞いた翠町中学校の1年生>

翠町中学校の女子生徒
「一生懸命作ってくれたので、しっかりと読んで、原爆のことについてもっと知りたいと思いました」

翠町中学校の男子生徒
「やっぱりつらい経験をしている人も多いかなと思いました。でも、それをきっかけに、僕たちはそれを正さないといけないのかなと思いました」

坪井直さん

「ネバーギブアップ」

坪井さんが人生をかけて取り組んだ思いは、決してギブアップすることなく、この先も受け継がれていくことだろう。


松井久治さん
「僕も意識してね“ネバーギブアップ”はいろんな時に使うようにしているんですけどね。ただ使うっていうことじゃなくて、それは坪井先生の思いをつなげていくということなんですけどね。諦めたら終わりですよね。今、ここまで進んでるんだなって思いながらね」

松井久治さん
「あんな大先生のまねとか、そういうことはなかなか難しいと思うけど、僕が僕なりにできること。ガイドもひとつですよね。坪井先生ほどのことができているかっていうと、それは全然、足元にも及ばないと思うんですが、100分の1でも何か役に立てたらなという気持ちは、あります」