島の子どもたちが見た 開戦前の真珠湾攻撃部隊

島の子どもたちが見た 開戦前の真珠湾攻撃部隊(2021/12/10 根室支局 廣瀬奈美記者)

「まるで鉄の塊みたいだった」

太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の前、ひそかに集結する軍艦を、日本の島の子どもたちが目撃していました。

その時、子どもたちは、戦争が始まり、島が過酷な運命をたどることになるとは知るよしもありませんでした。

“ヒトカップワン”の記憶をたどる

「ヒトカップワンを取材してみたら?」

北方領土を担当する根室支局で勤務する私に、ある日先輩記者が声をかけてきました。

ヒトカップワン…それが択捉島にある「単冠湾」のことだと知らず、話を聞いてみると真珠湾攻撃と深いつながりがあると解説してくれました。

開戦から80年の節目、島の歴史をあらためてたどり始めました。

6歳の少年は島で何を見たのか

当時を知る元島民の多くがすでに亡くなる中、1人の男性に話を聞くことができました。

上松健吾さん

根室市に住む上松健吾さん(86)は、単冠湾に面した年萌という小さな漁村に生まれました。

鯨の加工場を営む両親やきょうだいと暮らしていたときのことを懐かしそうに話しました。

上松さん
「川に行くとアキアジが泳いでいるし、ハマナスをとってきて、種をとってかじりついて口がかゆくなるまで食べたりしてね」

そんなのどかな漁村に80年前の昭和16年11月22日、一大事が起きました。

単冠湾に集結する機動部隊

当時6歳だった上松さん、ふだんは漁船が行き交う穏やかな海に異変を見つけました。

突然、巨大な軍艦があらわれたのです。

上松さん
「学校の帰りに見たんですよね。友達も、“おいおい、でっかい船いるわ”というような感じで。ただ驚くだけですね。だっていつもは小さい漁船ばっかりで、大きい船なんて見ることないでしょ。まるで鉄の塊みたいだった」

「夜になるとサーチライトを照らしていた。普通のライトの、もやもやとした光ではなく、ピッと強い光。それが数本重なってずっと空を照らしていた」

択捉島に現れた空母機動部隊

上松さんが目撃したのは、真珠湾攻撃に向かう前、ひそかに集まった旧日本海軍の空母機動部隊でした。

集結したのは、「赤城」や「加賀」など、空母6隻を含む30隻。

機動部隊がアメリカ軍の偵察で見つからないよう、北太平洋を東に進むルートが計画され、択捉島の単冠湾が出発地となりました。

単冠湾には、大規模な機動部隊が集結できる広さ、空母が停泊できる深さを備え、さらに真冬でも凍らないという特徴がありました。

当時、機動部隊の行動はすべて極秘とされていました。

上松さん
「これが軍艦かなっていう感じで、攻撃に行くとかそんな考えは全くなかったですよね」

10歳の少女が感じた“秘密”

さらに証言を聞くことができる人を探していたところ、当時の写真を持っているという元島民に出会いました。

桜井和子さん

上松さんと同じ集落で暮らしていた桜井和子さん(90)です。

4つ年上の桜井さんは、軍艦は「見てはいけないもの」と幼心にわかっていたと話し、1枚の写真を見せてくれました。

桜井さんが見せてくれたのは、郵便局の屋根に上った2人の少年を写した写真です。

単冠湾に集まってきた軍艦の様子を眺めているところだといいます。

「軍艦を見てはいけない」

この郵便局の局長だった父親が、屋根に上った2人をしかっていたのを強く覚えていました。

父親の写真

桜井さん
「見てはいけないって、政府からのお触れがありました。郵便局の屋根に上がって見ていた人たちも、父親にしかられて降ろされて」

桜井さんが感じた“秘密”は、資料にも残されていました。

戦後にまとめられた資料には、当時、択捉島では、開戦日まで郵便局の通信事務を一時停止させ、船舶の出入りをおさえるなど情報統制が徹底されていたことが記されていました。

桜井さん
「学校に行く途中も見てはいけないんだっていうので横目でちらちら見る感じで。大人たちも“見たらだめなんだよね”と話していたのを聞いたことがあります。

家から望遠鏡で覗いたら、軍艦と軍艦の間で手旗信号をやっていました。無線やなんかは全部漏れるから。秘密の状態ですからね。まさかそこから真珠湾に向かったなんて思いもよりませんでした」

単冠湾への集結が始まってから4日後の11月26日、空母機動部隊は一斉に出航し、現れたときと同じように突然姿を消しました。

そして12月8日、真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まることになります。

真珠湾攻撃で沈む軍艦

島民たちは、目の前で一体何が起きているのか知ることもないまま、図らずも歴史の目撃者となっていたのです。

迫る戦争の影 そして故郷は失われた

開戦後、戦況は徐々に悪化していきました。

択捉島は戦火を免れましたが、次第に戦争の影が忍び寄ってきていました。

あの日、軍艦を目撃した上松さんも例外ではありませんでした。

出征した兄は沖縄で戦死、島を離れて根室の女学校に通っていた姉も空襲で亡くなりました。

きょうだい3人を含む、親戚5人を戦争で亡くしました。

そして、昭和20年8月15日に終戦。

10歳だった上松さんは、先生から、こう説明を受けたのを覚えています。

「日本は戦争に負けました。どこかの国の兵隊が来るかもしれません」

その言葉どおり、およそ2週間後の8月28日、択捉島にソビエト軍が上陸、占領しました。

上松さんは、2年間、占領下での生活を続けましたが、ある日突然、強制退去を言い渡され、着の身着のままで引き揚げ船に乗り込み、島を後にしました。

“島で先生に”夢かなわず

一方、桜井さんは、終戦前、進学のために島を離れて函館で暮らしていました。

卒業したら島に戻り、当時集落に1人しかいなかった教師を支えたいと思っていました。

しかし、占領によって、二度と故郷に帰れなくなり、夢はかないませんでした。

桜井さん
「いつまでも島に帰るっていう気持ちが頭から離れなかったものですからね、まだわたしが昔見てたあの島があって、私が帰って、先生の力になるんだっていう、まだこう、全然夢として果たせなかったんですけどね、そういう気持ちって抜けないんですよね。

戦争さえなければ、夢のとおりの人生だったんじゃないかって、いまでも思うことがありますよ」

“何もなくても戦争は始まっている”

終戦当時、3600人あまりいた択捉島の島民は故郷を追われ、元島民の数は3分の1に減りました。

あの日、無邪気に軍艦を見つめていた上松さんも86歳になり、戻れない故郷の島に思いをはせています。

上松さん
「自分たちの住むところがなくなってしまった。それが戦争なのかもしれないけど。当時は、戦争がどんなにすごいものかも分からなかったし、戦争の意味もあんまり分からなかった。そんな中でも、何もなくても、戦争は始まってるんだという気がします」

北方領土の担当記者として

元島民の方々に実際にお話を聞くと、当時、軍艦を見て感じていたのは、不安や恐怖ではなく、純粋な驚きや好奇心でした。

ただ、それにどんな意味があるのか、また身の回りに何が起きているのかもわからないまま戦争が始まってしまったということにあらためて戦争の怖さを感じました。

さらに、この戦争は、島民にとっては、ふるさとを失うという重大な結果につながり、このことは、戦争が終わって76年経った今でも北方領土問題として根深く残っています。

そういう意味で、元島民の戦後は終わっていないと改めて感じました。