「私は真珠湾攻撃で“捕虜第一号”になった」 酒巻和男の生涯

「私は真珠湾攻撃で“捕虜第一号”になった」 酒巻和男の生涯(2021/12/8 名古屋局記者 星和也・徳島局記者 寺井康矩、有水崇)

真珠湾攻撃から80年。

『特殊潜航艇』と呼ばれる小型の潜水艦で出撃し、ただ1人生き残って“太平洋戦争の捕虜第一号”となった日本海軍の軍人がいました。

過酷な環境の中を果敢に生き抜き、帰国後は日本の戦後復興を支えた男性の軌跡は今の私たちに何を示しているのでしょうか。

第1章 戦友との80年ぶりの“再会”

四国西端に約50キロもの長さで突き出す、日本一細長い半島、愛媛県の佐田岬半島。

その中ほどに瀬戸内海に向かって北向きに開けた小さな湾があります。三机湾です。

三机湾

太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃からちょうど80年を迎えたことしの12月8日。

この静かな海で、ある石碑の除幕式が行われました。

石碑に記されているのは、「特殊潜航艇」と呼ばれる小型潜水艦で真珠湾攻撃に参加した酒巻和男(さかまき・かずお 1918―1999)・元海軍少尉。

ここ三机湾は、太平洋戦争の直前に特殊潜航艇の訓練が極秘に行われた場所でした。

酒巻とともに真珠湾攻撃に参加した9人はいずれも戦死し、日本で「九軍神」としてまつられ、賞賛されました。

しかし、ただ1人生き残って捕虜となった酒巻は、戦争中はその存在を消されていました。

三机湾には「九軍神」の慰霊碑があり、9人の写真が長く飾られていましたが、そこに酒巻の姿はありませんでした。

しかし今回建てられた石碑には、酒巻を含む真珠湾攻撃に出撃した10人全員の集合写真が飾られています。

あの日から80年。酒巻はようやくこの思い出の地で、戦友たちと再会を果たしたのです。

除幕式に出席した酒巻の長男、潔さんは「ハワイに突撃に行ってから80年たって、ようやくこの地に戻ってきて、9人の戦友と一緒にやすらかに眠れる。おやじ、良かったね」と安堵した顔で話していました。

第2章 “捕虜第一号” 酒巻和男

酒巻和男は大正7年(1918)、徳島県に生まれました。

幼少時から優れたリーダーの素質を見せ、地元の中学校を経て、海軍兵学校に進みます。

卒業後、少尉に任官し、選抜されて特殊潜航艇の訓練を受けました。

そして運命の昭和16年12月8日、真珠湾攻撃に参加しました。

5隻の特殊潜航艇にそれぞれ2人ずつ、酒巻を含むあわせて10人が乗り込んで真珠湾の湾内に潜行し、アメリカ軍に奇襲を仕掛ける計画でした。

特殊潜航艇

しかし、酒巻の乗った1隻はジャイロコンパスという方位を知るための機械が故障していたため迷走し、アメリカ軍の攻撃を受けたあげく操縦不能となって座礁。

機密を守ろうと潜航艇を爆破して脱出するため海に飛び込んだ酒巻は、生死をさまよう中で海辺に打ち上げられます。

そこをアメリカ兵に見つかって捕虜となりました。

太平洋戦争の“捕虜第一号”となった瞬間でした。

それからじつに4年。

太平洋戦争で最終的に日本が敗れるまで、酒巻はハワイを経てアメリカ本土に移され、雪が降る中西部ウィスコンシン州からサソリの出るような南部のテキサス州まで4か所の捕虜収容所を転々としました。

この中でアメリカの民主主義や合理主義への理解も深め、酒巻は続々と収容されてくる捕虜たちのリーダー的存在となっていきます。

第3章 専門家“捕虜にとっての救いの神”

捕虜について長年研究を続けている吹浦忠正さん(80)は、アメリカの収容所に酒巻が居たことが極めて重要な意味を持ったと指摘します。

吹浦忠正さん

太平洋戦争中、日本人捕虜の収容所は各地にありました。

オーストラリアやニュージーランドでは大規模な暴動が起き、多くの死者を出す事態が起きていました。

しかし、最も多く日本人捕虜が収容されていたアメリカでは、そのような大規模な暴動は起きませんでした。

吹浦さんは、そこには酒巻の働きが大きかったといいます。

吹浦さん
「酒巻が捕虜になって数か月後から、新しい捕虜がどんどん来たんですけども、そういう人たちに徹底的に彼は『身を大事にしろ』とか『帰って日本の復興に協力しよう。一緒にやろう』というように説得する側に回った。

これはほんとに“救いの神”ですよ。酒巻がいなかったら何千人、何万人という日本人捕虜が暴動を起こして死んでいたかもしれない」

ほかの捕虜たちを決して死なせなかった酒巻さん。

そこにはある信念があったと吹浦さんは説明します。

吹浦さん
「彼は捕虜たちをアメリカ軍が感心するぐらい礼儀正しく秩序を持った“ジェントルマン”に育てようとしていた。ごはんの食べ方でも、残し方でも、食器の洗い方でも、きちっとやらせてね。尊敬される日本人、なんて立派な日本人なんだというところを見せてやれというね。

監督しているアメリカ兵より、捕虜になっている日本兵のほうが態度や物腰が立派じゃないかというところを見せたいという、これは彼のある種の愛国心だと思います」

第4章 “精神革命”をした兄

アメリカ国立公文書館には、捕虜となった直後の酒巻の英訳された遺書が保管されています。そこには酒巻が詠んだ辞世の歌があります。

When cherry blossoms fall,
Let them fall!
Drenched are the its branches and leaves
With the sorrow of today!
(桜花 散るべきときに 散らしめよ 枝葉に濡るる 今日の悲しみ)

敵の捕虜になることを拒み、死を強く望んでいた酒巻の心情が伺えます。

このように当初は恥辱から死ぬことを考えていた酒巻でしたが、収容所で過ごすうち、やがて命を大事にして祖国の復興に努めることが亡き戦友に報いることになると考えを改めていきます。

帰国後に酒巻が出版した手記には、敗戦の報を受けた当時の心境が次のように述べられています。

「我々は黙って働かねばならないのだ。焼けた祖国を復興再建するために、鍬を振い、ハンマーを打って働かねばならないのだ。それが亡き戦友へのお詫びである」(『俘虜生活四ヶ年の回顧』昭和22年*)

昭和21年1月、酒巻は帰国し徳島の実家に戻りましたが、新聞等で報道されると厳しい非難にもさらされます。

やがて、紹介を受けて入社したトヨタ自動車で、今度は日本の戦後復興を第一線で支えることとなりました。

左から2人目

自分に厳しく他人に優しい持ち前の人格に加えて、収容所の生活で培った鋭敏な国際感覚と深い見識で人望も厚く、ブラジル・トヨタや建設会社の社長などを歴任し、40年の会社員人生を全うしました。

そして平成11年、81歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。

酒巻を知る関係者が高齢化し鬼籍に入っていく中、きょうだいの中で唯一、15歳年下の弟、松原伸夫さん(88)が徳島市で健在です。

今回の取材で松原さんは兄の思い出を語ってくれました。

酒巻の弟 松原伸夫さん

松原さんにとって年の離れた兄は白い海軍の軍服を身にまとった誇らしい存在でした。

兄が地元に帰ってきた時は、近所のあいさつ回りにもついて歩きました。

地元では酒巻さんに憧れて海軍を目指す人もいたと言います。

そんな兄の所在がわからなくなったのは、真珠湾攻撃の翌年1月からでした。

ある日、外で遊んでいた松原さんのもとに海軍の中尉を名乗る男性が現れたので、自宅を案内しました。

男性は父親に兄が戦死したことを伝えました。

ところが後日、今度は海軍の少佐を名乗る別の男性が家を訪れ、「生死不明。他言はしないように」とだけ言い残し去っていったといいます。

家族は戦死の報を受けて先祖の墓に灯籠を立てました。

3月になると真珠湾に特殊潜航艇で突入し戦死した9人が九軍神としてまつられました。

「9人はおかしい。1人は捕虜になったのではないか。もしかしたら兄かもしれない」と松原さんは思ったそうです。

しかし、兄に関する情報はその後もありませんでした。

そんな状況が一変したのが、終戦後の昭和21年1月のある夜。

寝ていた松原さんは急に家族に起こされました。

眠い目をこすりながら向かった先には予想もしなかった兄がいました。

4年以上にわたった長い収容所生活を終え、徳島に帰郷したのです。

「率直にうれしかった」と松原さんは再会したときの喜びを回想します。

ただ、兄の帰国後の生活は容易なものではありませんでした。

酒巻さんの帰国を喜ぶ人もいれば、好奇心で自宅を訪ねる人、ときには「切腹して詫びろ」という手紙も寄せられたといいます。

戦争について語ることのなかった兄は、その後、企業人として日本の戦後復興に貢献することになりました。

そんな兄について松原さんはこう分析します。

弟の松原さん
「いったん生かされた以上、過去の自分はもう戦死した、あとは戦後の日本の復興に尽くすべきだと。そういう“精神革命”をした」

今回、松原さんは健康上の理由などから兄の石碑の除幕式には出席できませんでしたが、こうして石碑が建立されたことについて「仲間と共に眠れることは、やっぱりうれしいことだと思います」と話しています。

第5章 黙して語らなかった“戦争”

酒巻は凄惨な戦争や自身が体験した捕虜経験について、家族や周囲に話しませんでした。

今回、愛知県に住む息子の潔さん(72)が取材に応じ、写真など、父の遺品をひとつひとつ見ながら、振り返ってくれました。

息子の潔さん

「父は戦争や捕虜の時のことは全然話さないし、こっちも興味を持って聞いたことがありませんでした。戦後もマスコミをシャットアウトしていました。

歴史は正確に伝えられなければならない。ましてや家族が自分のことを語る必要はないと言っていましたから」

戦争の経験を家族にも話さなかった酒巻。ただ、息子の記憶に残っているのは“もうひとつの戦争”を戦った父の姿でした。

息子の潔さん
「父は太平洋戦争と高度成長期のビジネス戦争の2つの戦争を経験しています。

戦後生まれの私が知っているのは、会社員としての父ですが、とにかく朝早く仕事に出て行って、夜は遅く帰ってくる父でした」

酒巻が会社員時代に使っていた手帳には、自動車の売り上げや打ち合わせの日程が小さい文字で細かくメモされています。

ブラジル・トヨタの社長として、日本車の市場拡大に尽力した酒巻。捕虜時代の経験が生きたのではないかと潔さんは話します。

息子の潔さん
「海軍の時と捕虜の時に身につけた語学力がビジネスの武器になっていたんじゃないかな。その上で、日本車を買って貰うために営業では“低姿勢だが粘り強く“というのを大切にしていたようです」

潔さんの目にはまた違った顔の父親も映っていました。

ビジネスの場を離れれば麻雀やゴルフが好きで、いつも仲間とのつながりを濃く持っていた一面です。

一緒に真珠湾攻撃に参加した仲間が全員戦死し、自分だけたった1人生き残り、いったんは歴史から抹殺された酒巻。

だからこそ、その後生きたビジネスの世界では仲間とのつながりを何よりも大切にしていたのだと言います。

第6章 “人を育てた”後半生

戦後、実業界に身を投じた酒巻が目指したのは、ビジネスで世界と渡り合うことでした。特に力をいれたのは“人材育成”です。

酒巻は入社したトヨタ自動車で中学を卒業したばかりの見習い技術者「養成工」の育成に励みました。

酒巻から直接指導を受けた角田清さん(84)は当時のことをよく覚えています。

角田清さん

「語学が堪能だったから英語の先生だったんだけど、英語よりも精神教育の方が印象に残っているね。『制服のボタンが外れてるぞ』とか『襟をきちっとしろ』とかね。とにかく厳しかった」

厳しい指導の背景には、捕虜の経験から戦後の日本が世界と渡り合うために酒巻が「世界と戦える人材」の育成を急ぐ必要があったと考えていたことがうかがえます。

酒巻が養成工に口癖のように話していたことがあります。

「海外の自動車メーカーと技術提携せずとも、我が社の技術力を向上させ、自分たちの力で造った純国産車で世界の自動車メーカーになるんだ」

その後、自身も自動車の技術者の養成などの功績で黄綬褒章を受章した角田さん。

技術者の指導をする際にはいつも酒巻の教えが根底にあったと振り返りました。

角田さん
「やっぱり人を大事にする。そして会社を愛する。立場を超えて“絆”を大切にすることは酒巻さんから学んだことです。私がその後、数十年にわたって携わった後進の育成にあたって、目には見えない酒巻さんのひと言ひと言が常に僕の中にありました」

第7章 あの大作家も注目

数奇な運命に翻弄され、想像を絶する数々の逆境を力強く生き抜いた酒巻。

その生き方に強く関心をひかれた作家がいます。

「沈まぬ太陽」や「白い巨塔」など、数々の社会派の小説を世に送り出してきた作家、山崎豊子さんです。

山崎豊子さん

平成25年に89歳で亡くなりましたが、未完となった最後の作品があります。

「約束の海」です。

主人公の自衛隊員・花巻朔太郎が、元軍人の父の足跡をたどりながら、自身の人生を見つめ直していくというストーリー。

この元軍人の父のモデルとなったのが酒巻です。

山崎さんは酒巻を長年書きたいと願い続けていたと貴重な証言を聞くことができました。

「約束の海」の取材チームの一員だった新潮社の編集者・矢代新一郎さんです。

山崎さんと矢代さん

きっかけは、太平洋戦争に翻弄された日系アメリカ人を描いた「二つの祖国」の取材の過程だったと言います。

取材の中で、ある日系人から「酒巻さんが収容所に連れてこられて、1人だけ別の棟に入れられた。それはあまりに気の毒だと、収容されていた日系人が作業の行き帰りに酒巻さんのいる棟を通るときに日本の軍歌や流行歌を合唱した」という話を聞き、関心を持ったそうです。

「二つの祖国」でも山崎さんは酒巻を少しだけ登場させていて、そのときから30年以上にわたって酒巻に興味を持っていました。

高齢となって体調を崩し、長篇小説の執筆が困難になる中でも、山崎さんは「まだ書きたい人物が3人だけいる」と情熱を燃やしていました。

そのうちの1人が酒巻でした。

「最後は終生のテーマ、戦争について書きたい」ということになり、山崎さんは作家人生の総決算に酒巻を選びました。

山崎さんは、酒巻を描くことの意味をこう書いています。

「彼は日本とアメリカが武器を使って戦争をしている間、捕虜の身で、一人だけ武器を使わない戦争をしていました。そこにこれからの世の中で、戦争と平和を分けるものの糸口があるように感じました」

第8章 “戦後日本人第一号”~その生き方から学ぶもの

海軍の俊英として生きた真珠湾攻撃の日まで。

捕虜第一号として広大なアメリカを転々とした流浪の4年。

そして戦後、帰国してから日本の復興を支えた後半生。

まさに波瀾万丈としか表現できない人生ですが、酒巻の生き方から、いまの日本を生きる私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

その答えを探る中で、ある1本のテープにたどり着きました。

収められているのは、捕虜生活について酒巻が語った肉声。

捕虜について長年研究を続けている吹浦忠正さんが、終戦から30年あまりたった1977年にインタビューした際に録音したものです。

公になるのは今回初めてです。

1時間ほどのインタビューの中で、アメリカの日本人捕虜たちをまとめ上げるリーダーとなっていったことについて酒巻はこう語っていました。

「後の者をむしろ導いていかなくちゃいけない。生きてしまった結果の事実に対して、それ(命)をまたお粗末にしてもいけない。だから結局生きておるという事は、生命を大事にして、より立派な日本人として、人間として、もっとより有意義な生き方をしていかなくちゃいけない」

聞いていて思わず背筋が伸びるような声でした。

インタビューをした吹浦さんは、酒巻は誰よりも早く“戦後”を迎えた日本人だったのではないかと言います。

吹浦さん
「戦争直後に書いた本の中で、『広い視野を持て』、『教養を身につけろ』、『知識は大事にしろ』とか、そういうことを言っている。すでに軍国主義を捨てている。アメリカ人のいいところはいいと評価している。

捕虜の身でありながら、教育者に変わっていった。彼は“捕虜第一号”であり、“戦後日本人第一号”でもあったのではないか」

酒巻を遺作「約束の海」で描いた稀代の作家、山崎豊子さんも、酒巻を“大日本帝国の呪縛から最初に逃れた人”だと評していました。

編集者として伴走した矢代さんは、「約束の海」を通じて山崎さんが訴えたかったことについてこう述べました。

矢代さん
「山崎先生の小説によく出てくるんですが、酒巻さんもいちばん最初にものすごい挫折をしているわけです。けれども、そこから立ち上がって何事かをなしていこうとする、自分で考えて行動する、つまり酒巻さんは自分の頭で考えて捕虜収容所の中でいろいろ変わっていったわけですよね。

悩んでもいい、挫折してもいい。そのうえでこれからのこの国をどうすべきか、一人一人が自分自身の頭で考えてほしい。そのヒントにしてほしいということじゃないでしょうか」

広い視野を持ち、日本人として、人間として、有意義な生き方をしなければならない――

苛烈な人生を送った1人の男が残したメッセージは、太平洋戦争の開戦から80年が過ぎ、戦争の記憶も薄れつつある中でも、決して色あせていません。

(付記)

*酒巻和男氏が帰国直後の昭和22年と昭和24年に出版した2冊の捕虜生活の体験記は入手困難となっていましたが、有志によって復刻版が出版されています。

問い合わせはイシダ測機 088-625-0720

酒巻氏のインタビュー音声を特別追加公開

「これからの国際社会、非常に身近に世界の人類がいろいろ協調してやっていかなくちゃいけない時に、日本人はもう少し成長しなくちゃいけないという感じがする。生きてしまった、生まれた結果の事実に対してお粗末にして犬死にしてもいけない。結局、生きているということは、生命を大事にして、より立派な日本人として、人間として、もっとより有意義な生き方をしていかなくちゃいけない」

(酒巻和男氏 1977年に吹浦忠正氏がインタビューした際のことば)