水中特攻「伏龍」88歳の証言

水中特攻「伏龍」88歳の証言(2018年8月15日 岐阜局 大村志歩ディレクター)

太平洋戦争終戦の3か月前、日本本土を守る最後のとりでとして、海の中から敵船をめがけて特攻する「伏龍特攻隊」という部隊が編成されました。

「戦争中に見た事実を死ぬ前に伝えたい」。この特攻隊に所属していた岐阜県多治見市の88歳の男性が語る戦争の記憶をたどります。

「最後のとりで」

太平洋戦争終戦の3か月前、日本本土を守る最後のとりでとして、海の中から、潜水夫が敵船の船底をめがけて特攻する「伏龍特攻隊」という部隊が編成されました。

「伏龍特攻隊」は、粗末なゴム製の潜水服に重さ80キロの潜水具といういでたち。

先端に機雷をつけた竹やりを持って海に潜ってじっとひそみ、敵の上陸用の舟艇が来たら船底を突いて自爆するいわば“人間機雷”でした。

岐阜県多治見市に住む鈴木道郎さん(88)は、元伏龍特攻隊の隊員です。

初めて伏龍の装備を身につけたときのことをこう語っています。

鈴木道郎さん:
「ゴムの長靴みたいなズボンを履いて、最後に面マスクをつける。マスクをねじ込む時に、ぎゅうぎゅうという独特の音がする。この音を聞くと心臓が止まるような、なんとも言えない気持ちになった」

なぜ「伏龍特攻隊」に?

鈴木さんは14歳のとき、飛行機乗りに憧れて予科練(海軍予科練習生)に入り迷うことなく特攻隊を志願しました。

鈴木道郎さん:
「私は9人兄弟の真ん中で、家が貧しく大変だった。特攻隊で死ねば銅像が建って村の誉れになる」

鈴木さんが所属していた予科練には、200人以上がいましたが、特攻隊に選ばれたのはわずか10人足らず。鈴木さんもその1人でした。

特攻隊に選ばれた鈴木さんたちは、神奈川県横須賀市の海軍拠点に送られます。

そこで行われていたのは過酷な潜水訓練でした。

「伏龍」編成の秘話

太平洋戦争の末期、アメリカによる空襲が激化し、本土決戦も間近とみられていました。

敵の上陸を水際で食い止めるため、最後の切り札として考え出されたのが、人間機雷「伏龍特攻隊」でした。

隊員として集められたのは、10代の若者たちばかり。

鈴木道郎さん:
「ほとんどが15歳から20歳ぐらい。私はその当時一番若かった。(戦友とは)ふるさとの話ばかり。うちはこういう食べ物があったとか、俺のおふくろはこう言ってたとか」

相次いだ事故死

訓練が始まると、若い隊員たちは慣れない潜水に苦しみました。

訓練中の事故死が相次いだといいます。

原因の一つが潜水具の欠陥です。

伏龍の背中には「清浄缶」と呼ばれる器具があり、中には、はき出した息の中の二酸化炭素を取り除くために、劇薬のカセイソーダが入っていました。

ところが、清浄缶はブリキ製で壊れやすく、岩などにぶつかって破損すると、海水とカセイソーダが反応し、高温の液体が隊員を襲いました。

鈴木さんは、仲間の死を何度も目の当たりにしたといいます。

鈴木道郎さん:
「清浄缶に穴が開いたり、水圧で水が入ると、頭の上から(液体が)降りてくる。それを鼻から吸いますから、おなかの中に劇薬が入る。もだえ苦しんで死んでいくんですよ」

「あんまりにも人が死ぬもんで、焼き場がいっぱいで、(海岸に)枕木のようなものを積み重ねて石油をかけて火をつけて燃やすんですよ、人間を。3人くらいいっぺんに。実戦で死んだら、戦って死んだら本望。でも、そうじゃない。事故で死ぬんだ。そんな情けない話はない」

実戦投入されずに終戦

鈴木さんが訓練を始めて2か月あまり、日本は終戦を迎えます。

結局、伏龍特攻隊が実戦に投入されることはありませんでした。

伝えたい命の大切さ

戦後、鈴木さんは小学校の教員となり、子どもたちに伏龍の体験談を語り続けてきました。

鈴木道郎さん:
「いま思ってもこんな装備で勝てるはずがない。伏龍で勝てるはずがない。これを語り継げるのは、その当時を見ていた私しかいない。人の命は二つとないなんにも代えがたいもの。このことを身をもって経験してきたからこそ伝えなければと思っています」