大空を駆けるパイロットが夢だった 特攻隊員が残した家族への思い

大空を駆けるパイロットが夢だった 特攻隊員が残した家族への思い(2021/12/22 盛岡局ディレクター 門脇弘樹)

「日本一の幸福者、新平最後の親孝行に、いつもの笑顔で元気で出発いたします」

太平洋戦争の末期、ある特攻隊員が出撃前に両親に宛てた遺書の言葉だ。

岩手県住田町出身の、佐藤新平少尉。

操縦席での柔和な笑顔が印象的な「新平」は、特攻隊に指名された1945年3月末から4月にかけて、10日間で「留魂録」と題した日記を書き、23歳で戦死した。

26歳の私(ディレクター)とほとんど年の変わらない青年は、死を前にどんな思いを抱いていたのか。

「待望の日はついに来た」

太平洋戦争末期に行われた、爆弾ごと敵艦に体当たりする特攻作戦。新平と同じ岩手県出身で特攻戦死した人は54人で、大半が20歳前後の若者だった。

日記「留魂録」は、新平が12名で編成された「第79振武隊」の一員に選ばれたところから始まる。


「3月27日、待望の日は遂に来た。特別攻撃隊の一員として、悠久の大義に生く。日本男児として、又、空中戦士として、之に過ぐる喜びは無し」
「昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして、漸く希望入れらる」
「最後まで操縦桿を握って死ねる有難い死場所を得る事が出来、新平、幸福感で一杯です」

勇ましい言葉を日記につづった新平とは、どんな人物だったのか。遺族が住む岩手県住田町、山あいにある人口5千人ほどの町を訪ねた。

飲食店を経営している佐藤詔子さんは新平の、おいの妻に当たる。新平のことを直接は知らないが、佐藤さんが伝え聞いたところによると、小さいころから優秀で「神童」と呼ばれていたという。

詔子さんが保管していた2冊のアルバムを見せていただいた。

「熊谷陸軍飛行学校 館林教育隊 佐藤新平」と書かれた方のアルバムには、新平の幼少期から軍に入隊したころまでの写真があった。

中にはイギリスなど当時は敵国の爆撃機の写真まであって、相当な飛行機好きだったこともうかがえる。

民間のパイロットを目指していたのに

もう一冊のアルバムからは、新平の経歴が浮かび上がってきた。

新平は太平洋戦争開戦前の1940年、18歳で逓信省仙台地方航空機乗員養成所に入所した。

この養成所は、国が民間のパイロットを軍に頼らずに育成しようと設立したもので、学費は無料、給与も少し出るとあって人気を集めた。

入所試験は倍率数十倍の難関で、当時の操縦士は花形の職業だった。

しかし戦争によって新平の運命は大きく変わってしまう。


成人男子は当時兵役が課されていたため、もともと養成所の出身者たちは、卒業すると兵役として軍の飛行学校でさらに訓練を受けることになっていた。平時には民間航空に勤務できるが、戦争となれば召集されて飛行兵となる。

新平の場合は兵役期間中に太平洋戦争が開戦したため、民間のパイロットになることもなく軍の航空隊に入り、訓練生たちに操縦の基本を教える「助教」を務めたあと、特攻隊に選ばれた。

詔子さんは、「特攻に行かなかった人が大きな会社のパイロットになったという話も聞きますしね。複雑だね」と語る。

訓練に明け暮れた青春

新平の日記には、養成所時代の同期についても書かれていた。


「3月29日。16時頃、偶然にも仙台養成所時代の同期、綿貫軍曹、立川より飛来、一時間余、養成所時代の事、三期生の消息等、なつかしい想ひ出話に花を咲かす。彼等も間もなく前線出発との事、成功を祈る。同期も大分戦死との事、靖国神社の同期生会に立派な武勇傳の一席、土産に出来る如く努力せむ。」

日記に出てくる養成所の同期が、新平について書いた手記がある。

そこには新平が、「がまの油」や「色小ばなし」といった隠し芸が得意だったという、芸達者な一面が書かれている。

さらに操縦の腕も確かだったようで、訓練では「急降下爆撃」が得意だったそうだ。

新平たち第79振武隊は、埼玉県桶川市の飛行場で特攻の訓練に励んでいた。

日記からは、特攻隊が編成されてから慌ただしく過ぎていく日々がうかがえる。

「3月30日。此の所、毎日快晴の日が続く。」
「演習は離着陸……。出撃の予定が早くなりしとの事で、又午前、午後の演習となる。ピストも任務が任務なので非常に活気あり。」

特攻隊の訓練とはどのようなものだったのか。第79振武隊について調べて伝承する活動をしている瀬戸山定さんにお聞きした。

瀬戸山定さん:
「大きな木があったそうですが、それが敵艦だということで飛行場すれすれになりながら、木に向かってですね、いわゆる敵艦船への突っ込みの練習ですかね、それに明け暮れたようです。スピードがどんどんどんどん上がってくると、飛行機が浮こう浮こうとするわけですよ。だから下りるときは操縦桿をこういうふうに前に前にいっぱいに押して戻されないようにグーとやるんですね。」


「新平は常に幸福でした」

日記を書き始めてから5日目、新平は出撃の日が間近に迫っていることを知る。

「3月31日。愈々艦船攻撃の訓練に入る。必中必殺の信念のもと……。」
「数日中に愈々前進基地に出発との事。陸軍大臣より鉢巻送らる。」

日記の内容は大きく変わった。

「軍隊へ入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。」

「態々長い旅をリュックサックを背負って会ひに来て下さったお母さんの姿を見、何か云ふと涙が出さうで、遂、わざわざ来なくても良かったのに等と口では反対の事を云って了ったりして申し訳ありませんでした。あの時お母さんと東京を歩いた思ひ出は、極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思ひ出となる事でせう。あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が奉られるのですよ……。手をつないでお参りしましたね。今度休暇でかえった時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。去年の時もそうでした。日本一のお母さんを持った新平は常に幸福でした。」

「留魂録」の最後には、新平の兄の幼い子どもたちへの言葉が、カタカナで書かれていた。

「キヤウダイハ イツモナカヨク タスケアッテ クラシナサイ。オトウサント オヂサンノヤウニネ。」

1945年4月16日。新平は、陸海軍合わせ約500機で知覧から出撃。沖縄周辺の米軍艦船を目指した。

新平の機体がどのような最期を遂げたのか、正確な記録は残っていない。

故郷の岩手県住田町に暮らす遺族は、今も大切に墓を守っている。