「わたしは戦艦大和で撃っていた」語れなかった思いを若い世代が受け継ぐ

「わたしは戦艦大和で撃っていた」語れなかった思いを若い世代が受け継ぐ(2021/08/13 神戸放送局 田口めぐみ記者)

兵庫県の北部の小さな集落に、手作りの戦争資料館があります。

その名も「おじの大和ミュージアム」

戦艦大和の乗組員だった叔父さんの遺品を展示するため、8年前にオープンしました。

しかし管理する男性の高齢化にコロナ禍も加わり、9月いっぱいで閉館することに。

戦争を生き残った叔父さんの思い。次につないでいくことはできるのでしょうか。

「おじの大和ミュージアム」って…?

「養父市の大和ミュージアムが閉館するらしいよ」

私(田口)のもとに、知り合いから連絡がありました。

「大和ミュージアム」といえば、広島県呉市にある博物館ですよね…?

思い出しました。山沿いにある養父市の中でもずっと奥。

民家が点在する中の古い家の前に置かれた、手書きの看板。

貴重な資料がある戦争資料館だとは聞いていましたが、いつも前を通り過ぎていました。

閉館するのならば一度、ぜひ話を聞きたいと取材に出かけることにしました。

山中の手造りミュージアム

私が勤務している兵庫県北部の豊岡市の南に養父市はあります。山に囲まれた人口2万余りの小さな自治体です。

市の中心部から、田んぼや畑をながめながら車で40分ほど走ったところに「おじの大和ミュージアム」があります。

一軒家の前に、大きく手書きされた看板が掲げられています。

「おじの大和ミュージアム おいの竹田茂樹」

ダリヤやひまわりが咲く庭の中から、にこやかな笑顔で“おい”の竹田茂樹さん(78)が出迎えてくれました。

竹田茂樹さん
「8年前に亡くなった叔父が住んでいた家が空いたので、そのまま資料館にしました。家の中にあった叔父の資料を取り出して並べて、誰でも自由に上がって見てもらっているんです」

茂樹さんの叔父の明さんです。

昭和18年、19歳のときに兄を追って海軍に志願し、兄弟で大和の乗組員になりました。

昭和16年に就役した当時、世界最大の戦艦「大和」は昭和20年4月、沖縄に向かう途中に撃沈され、乗組員3332人のうち生き残ったのは明さんを含めてわずか276人。

兄と同郷の仲間2人を失った明さんは、戦後ふるさとに戻っても戦争の話をすることもなく、もくもくと畑仕事に打ち込んでいました。

竹田茂樹さん
「叔父の家の近所に住んでいましたが、叔父から戦争の話を聞いたことはありませんでした。とてもかっぷくのいい叔父なのに、ちょっとしたケガで血をみると貧血のようにふらふらしてしまう人だったので、戦争の経験がそうさせているのかなと思っていました。悲惨な経験をしたんだなと思っていました」

わたしはここで撃っていた!

戦後から60年の平成17年。

茂樹さんは明さんと一緒に広島県の「大和ミュージアム」を訪問しました。この年、公開された映画「男たちの大和」を見たことがきっかけでした。

館内に進んだ明さんは、10分の1の大きさで復元された大和を見て、突然、叫ぶように語り出しました。

「わたしはここで撃っていた。あそこで!」
(竹田明さん)

明さんは多くの観客の前でいきなり説明を始めたそうで、茂樹さんは驚いてその様子を撮影しました。

復元された大和を見たころから、明さんは当時の記憶を証言するようになり、地域の集まりやメディアの取材で戦争の体験について語り始めました。

明さんは耳が遠く、1人暮らしだったため、茂樹さんが電話の取り次ぎや送り迎えをサポートするようになりました。

そして隣で繰り返し話を聞くうちに、明さんが戦争のことをこれまで語ってこなかった理由は、自分だけが生き残って帰ったことをずっと申し訳なく思っていたからだと、感じたといいます。

遺品を集めてミュージアムを開館

平成25年6月、明さんは89歳で亡くなりました。

住宅や遺品の管理をすべて任されていた茂樹さんは、その年のお盆に、供養になればと「おじの大和ミュージアム」を開館させました。

竹田茂樹さん
「80歳を過ぎた叔父さんが戦争のことを話すたびに、今はやりたいことは何でもできる。何にでも挑戦しなさいと、平和の尊さを繰り返し語っていました。自分の兄も同郷の仲間も死んで、自分だけが生き残っていて申し訳ないと語っていた叔父さんだったけれど、いつしか語ることで平和の大切さを伝えようとしていたのだと思う。遺品にどんな価値があるか分からなかったけれど、公開することがつとめと思った」

壁や机には戦争に関する約100点の資料が、所狭しと並べられています。

明さんが海軍の砲術学校で優秀な成績を収めたときに受け取った恩賜の時計。

出征時に贈られた旗に記された寄せ書き。

生前に大切にしてきた品々を、手に取って間近に見ることができます。

公開から8年で、訪れた人は約1500人に上ります。茂樹さんは時間があれば来館者に、叔父さんから聞いたことを語ってきました。

しかし来年で80歳。さらにコロナ禍で、高齢者が多く住むこの町に「気軽に来てください」「立ち寄ってください」とも言えなくなりました。

そこで9月末で閉館を決めたのです。

竹田茂樹さん
「残念だけれども、自分1人ではどうにもならない」

若い世代が2人の思いをつなぐ

戦争を生き残った叔父さんからおいが引き継いだ、平和への思い。

それがさらに次の世代へ受け継がれようとしています。

茂樹さんと明さんの遠縁に当たる田路森平さんは、この春に大学を卒業して就職し、現在は大阪で暮らしています。

子どものころから明さんや資料館のことは知っていましたが、閉館すると聞いてことしの春、初めて訪れました。資料の由来をじっくり聞いて、今までに見たどのドキュメンタリーや映画、アニメなどより戦争をリアルに感じたといいます。

田路森平さん
「こんな身近に大和の生還者がいたことに改めて驚きました。遺品のアルバムに写っている人たちは、今の自分より若いごく普通の青年たちで、多くが戦死したと思うと胸が詰まりました。茂樹さんから『明さんはずっと自分からは語れなかった』と聞いて、明さんに会っておけばよかった、早く話を聞いていればよかったと思いました」

田路さんは「明さんから直接話を聞いた茂樹さんの話も今記録しておかねば」と考え、ユーチューブに証言を残すことにしました。

竹田さんが「おじのミュージアム」を訪れた人に話す様子を、約20分の動画にまとめて公開。ミュージアムは閉館しても、WEBサイトで2人の思いを伝えることができるようになりました。

また、残された資料についても引き取ってもらえる施設を茂樹さんと一緒に探していきたいと考えています。

田路森平さん
「戦争に巻き込まれたのは特別な軍人ではなくぼくらの身近な人だったことを感じてもらい、戦争と平和を考えてもらえるよう活用してもらえればうれしい」

明さんが亡くなる直前に語った悲惨な戦争の思いを、茂樹さんと田路さんが、自分たちのできる方法でこれからもつないでいこうとしています。