8月9日の新聞のテレビ欄、NHK「ニュースウオッチ9」の予告です。
「長崎原爆を『笑い』で語り継ぐ」
この予告、あなたはどう感じますか?
「原爆をお笑いにするなんて不謹慎だ」などと反発を感じる方もいるかもしれません。私も取材するまでは正直不安でした。
でも、いざ取材を始めると不安はすぐに解消しました。76年前の原爆の悲惨な記憶を決して風化させることなく、お笑いを通じて無関心な若者たちに知ってもらいたいという真剣なチャレンジ精神があふれていたからです。
「原爆漫才」の仕掛け人は被爆者の子ども=被爆2世で作る団体「長崎被災協・被爆2世の会・長崎」の会長、山崎和幸さんでした。
被爆者の平均年齢は84歳に迫り被爆者が語り部となって被爆体験を伝える活動は難しさを増しています。
「被爆者がいない時代」が将来到来したとき、どうやって今の子どもたちに被爆体験を伝えるのか。
悩んでいた山崎さんが1年前に目をとめたのがある劇を披露していたお笑い芸人のコンビでした。
吉本興業に所属する「アップダウン」。
芸歴は25年で、北海道出身の竹森巧さんと阿部浩貴さんのコンビです。
民放で放映された「M-1グランプリ」では準決勝進出の経験があり、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」で阿部さんはコンビニ店員の「いらっしゃいませ」がアメリカのロックバンドの名前「エアロスミス」に聞こえるという芸で優勝したこともあります。
ここ数年、アップダウンは歴史を伝える作品に意欲的に取り組んできました。
おととし発表した特攻隊の実話をテーマにした2人芝居は、特に注目を集めました。
長崎側の「仕掛け人」の山崎さんは笑いも交えて戦争を伝えたこの2人芝居にとても感動したと言います。
そしてアップダウンならば被爆体験の継承に新風を吹き込んでくれるのではないか。
そう期待して原爆をテーマにした作品を作ってほしいと白羽の矢を立てたのです。
長崎被災協・被爆2世の会・長崎 山崎和幸会長
「お笑い芸人が演じているということで、親近感を持って受け入れてもらえるのではないかと思いました。
どういう結果が出るかはわかりませんけど、今までになかったような、斬新な活動をやるということが求められていると思うんです」
ただ依頼を受けたアップダウンは当初は及び腰でした。
阿部さん
「原爆は突如訪れた悲劇なので、どう表現したらいいんだろうと思っていました」
竹森さん
「最初は(原爆は)ちょっと触っちゃいけないテーマだという風には思いました。『お前らに言われたくないんだ』っていう風に思われる方もいるのかなと。気を遣いますよね。そして何より(原爆は)重たいなと思いました」
それでも2人は去年夏、長崎を訪れて被爆者や被爆2世と交流する中で依頼を受けることを決意します。
被爆者たちから「若い世代にどうやって被爆体験を伝えればよいのか苦労している」と悩みを聞かされ、「被爆の記憶を伝えるためには時にはユーモアも必要だ」などと背中を押されたのです。
こうして立ち上がった原爆漫才。2人は「ネタ合わせ」に1年を費やしました。
長崎側からは学校の平和学習で披露できる作品を作ってほしいという要望です。
2人は思案の末「漫才」の笑いのパッケージにシリアスな被爆体験をくるむ全体構成を思いつきます。
次に中身です。
どれぐらい「笑い」の量を盛り込んでよいのか。2人が特に苦労した部分です。
「笑い」が少なすぎれば客は飽きてしまうし、反対に「笑い」が多すぎれば失礼な印象になってしまうと2人は悩み続けました。
竹森さん
「このボケはちょっとダメなんじゃないの、というやりとりを何度も繰り返しましたね。本当は原爆のシリアスな話をしている部分にも、もうちょっと笑いを入れた方がいいんじゃないかって言ってたんです。話が重たくなりすぎると場がしぼんでしまうので、ここで一発ボケを入れておこうよと。いや、ちょっとそれはなしだな、とか言って。さじ加減が難しいです」
阿部さん
「ちゃんと伝えたいっていう気持ちを持ちながらやっていればいいんですけど、お笑い芸人なので、たまに笑いも欲しくなるんですよね。そういうときに、やっぱりここは笑いの量が多いなということがありましたね」
ことし7月、試行錯誤の末にできあがった人情漫才ならぬ“原爆漫才”の試作品が2人の地元札幌で披露されました。
原爆漫才はまず笑いで客の関心をつかみます。
(漫才のだいご味は文字だけでは伝わりにくいため抜粋した動画を3つ掲載します)
阿部「ある日ですね、どお~んと、遠くで音が鳴るわけですよ」
竹森「何それ?」
阿部「空襲ですよ。町に空襲警報が鳴るんです」
竹森「アア~」
阿部「そう、このように空襲警報が鳴って」
竹森「~ァ、そういうことなんだ」
阿部「納得してたの?納得してたの?」
竹森「納得してたの」
阿部「空襲警報やってくれてたんじゃないの?」
竹森「やってないやってない」
次に客席に“想像力を働かせてほしい”と繰り返し訴えます。
笑いを交えながら何度もこのキーワードを口にして客が想像力を働かせることで戦争が起きた当時に思いをはせてもらうためです。
そして原爆漫才のメインパートです。
2人の顔つきは一変します。
76年前、原爆が投下された直後の長崎でみずからも被爆しながら被爆者の治療にあたった医師と被爆した少年のやりとりを涙を流しながら演じます。
真剣そのもの、一切笑いはありません。
竹森「ピカッと青白い光がして、まばたきをした瞬間…!その光は爆風となって悟少年を襲いました。気が付くと、家の下敷きになっていました」
阿部「はあ、はあ、頭が、ギシギシ痛みました…。目を開けてみると僕は、2つの柱にはさまれていました」
竹森「上の柱から出た五寸釘が、体の至る所に刺さり、頭の皮と骨との間を貫き、彼は動けなかったのです」
阿部「だれか、誰か助けて…!」
最後は笑いで締めくくります。
竹森「それではもう1曲、聞いてください!!」
阿部「まだ歌うんか。まだ歌うつもりか」
竹森「聞いてください、『盆踊り』」
阿部「同じ歌か。同じ歌かよおまえ。いいよ、何回も何回も」
竹森「そうだよな、戦争と一緒だよな」
阿部「どういうことよ?」
竹森「繰り返しちゃいけないよな」
阿部「もういいよ!」
竹森・阿部「どうも、ありがとうございました!」
8月11日、長崎市で原爆漫才の初公演が行われました。
客席からは序盤は笑い声があがり、シリアスな原爆劇では涙をすする声が聞かれました。
長崎公演は大きな拍手に包まれて幕を閉じました。
市内の被爆3世の女性(30代)
「漫才と聞いて、どういうことだろう、どうするんだろうという疑問があったんですけれど、笑いも入れながら、本当に大事なところはしっかり押さえてくださっていると感じました」
市内の女子高校生
「毎年毎年、平和学習をやっていて、たぶん飽きた人もいると思うけど、その人たちにきょうの漫才を見せたら、おもしろいなとか、じゃあ調べてみようかなと思うんじゃないかと思いました。笑ったし、泣いたし、すごいなと。おもしろいことをやってる人が真剣に原爆劇をやっているのがすごいなと思いました」
被爆者からも好意的に受け止める声が聞かれました。
長崎原爆被災者協議会 田中重光会長
「なかなか良かったと思います。悲しいことばっかりだったらちょっと、気が沈んでいきますから、こういう形で伝えていったら、子どもたちにもウケるんじゃないかなと。きょう来ていた少年がものすごく笑っていたので、学校なんかで特に取り上げてほしいですね。
こういう笑いで、被曝の記憶を伝えるのは初めてではないかなと思うので、新しい継承の手段が見つかったんじゃないかと思います」
アップダウンは力を出し切ったという爽やかな表情でした。
阿部さん
「長崎という場所で、被爆者の方とか被爆2世の方がいらっしゃる前で披露するのは、とても緊張感ありました」
竹森さん
「ちょっと、ぐっときてしまいました。おこがましいんですけど、精いっぱいやったと思います」
ほっと胸をなで下ろしたのは仕掛け人である「長崎被災協・被爆2世の会・長崎」の山崎和幸さんも同じでした。
山崎さんも成功するかどうか不安だったのです。
山崎さんのもとには「漫才師を使うのは本来の原爆の継承のやり方からかなり外れているのではないか」という厳しい苦情の電話も寄せられていました。
長崎被災協・被爆2世の会・長崎 山崎和幸会長
「(私自身が)始まる前はやっぱり緊張していました。どうなるか分かりませんでしたけど、(客席が)良い反応だったのでよかったです。子どもたちはお笑い芸人の話ならば抵抗なく受け入れるので原爆の話も壁を取り払ってくれていたと思います。
やっぱり継承していくためには若い世代に理解してもらわなきゃいけないわけですからね」
産声をあげた「原爆漫才」。
アップダウンは今後、さまざまな被爆体験を取り込み、原爆漫才のレパートリーを増やし、全国展開を図りたいと意気込んでいます。
竹森さん「これがスタートだと思う。若い人たちに原爆漫才を見てもらい、当時のことを想像してもらいたいので教育現場でやっていきたい」
阿部さん
「今後、長崎県外でも公演をやりたい。僕たちの漫才を見た若い世代が原爆資料館に足を運んだり、被爆体験をされた方に話を聞いたりする第一歩になってくれたらすごいうれしいですね」
被爆地長崎からの思い切った依頼とそれに応えたお笑い芸人の努力によって誕生した原爆漫才。
原爆の記憶継承に一石を投じたことは間違いなさそうです。
戦争を知らない若い世代が原爆の悲惨な記憶に目を向けるきっかけになるのか。注目していきたいと思います。