自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶(2018年8月15日 稚内支局 芋野達郎記者)

「その場にいたら、自分も自決していた」

終戦直後の樺太で、ソビエト軍の侵攻の状況を電話で伝え続けた後、自ら命を絶った真岡郵便局9人の電話交換手を知る同僚が、思い出を絵に描きました。

NHK札幌放送局では、太平洋戦争中に樺太、今のロシア、サハリンや千島列島、北方領土での体験を絵に描いてもらう「樺太・千島戦争体験の絵」を募集しています。

花形の電話交換手
楽しい思い出

北海道の和寒町の栗山知ゑ子さん(90歳)は、戦時中、樺太の真岡郵便局で電話交換手として働いていました。

当時の電話交換台での仕事風景や、同僚たちとの昼休みの団らんを絵に描きました。

電話は当時、情報をいち早く伝える手段として重要な役割を果たしていて、電話交換手は女性たちにとって、花形の職業でした。

その責務は重く、常に緊張を強いられましたが、昼休みだけはみんな普通の女の子に戻り、おしゃべりを楽しんだそうです。

ソビエト軍の侵攻
最後の別れ

昭和20年、当時17歳だった栗山さんが頼りにしていた先輩は、6歳年上の可香谷シゲさんでした。

いつも笑顔が絶えず、郵便局内の演芸大会の前には、出し物の踊りを教えてくれました。

しかし終戦直後、ソビエト軍が樺太に侵攻。楽しい時間は、突然断ち切られました。

栗山さんは使命感から仕事を続けるつもりでいましたが、母親から頼まれ、家族と共に疎開することにしました。

栗山さんが郵便局で事情を話すと、可香谷さんたちは「元気でね」と笑顔で受け止め、送り出してくれました。

それがみんなとの最後の別れとなりました。

「自分も自決していた」

その2日後、ソビエト軍が真岡に上陸。可香谷さんら9人は郵便局に残り、電話で戦況を伝え続けました。

そして「みなさんこれが最後です。さようなら、さようなら」と告げ、青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。

9人の死を知ったとき、栗山さんは驚くとともに「もし疎開していなければ、自分も薬を飲んで自決していた」と思ったそうです。

最後まで国に奉仕する教えを受けていた身として、自分だけ自決しない選択肢はなく、栗山さんは自分と9人との間に大きな違いはないと感じています。

栗山さんは、樺太の対岸の稚内市で、毎年8月の9人の命日に開かれる追悼式典に参加しています。

栗山知ゑ子さん:
「戦争がなかったら、みんなで楽しく仕事をしていたでしょう。一緒に仕事したり弁当を食べたりした思い出を、大切にしていきたい」