美しい半島の海は“戦場”だった 知られざる悲劇を語り継ぐ

美しい半島の海は“戦場”だった 知られざる悲劇を語り継ぐ(2021/08/04 金沢局 記者 森山睦雄)

石川県の能登半島。

豊かな自然、伝統的な祭事、農業や漁業…

特色ある人々の営みが受け継がれています。

しかし終戦前後は、この美しい半島の海でも多くの人がアメリカ軍の攻撃などによって命を落としました。“戦場”と化した能登の里海の知られざる戦争の悲劇です。

昭和20年6月 魚雷攻撃で輸送船が沈没

『敵潜ノ砲雷撃ヲ受ケ/全部沈没スルニ至レリ』

防衛研究所に保管されている日本海軍の部隊の電報です。

終戦間際の昭和20年6月12日、今の石川県志賀町に停泊中だった日本の輸送船3隻がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した時の記録です。

石川 志賀町

志賀町は能登半島の西側に位置し、美しい砂浜が広がっています。

現在、近くに富来漁港がある場所はかつて船の停泊地で、中国や朝鮮半島から食料や石炭を運んできた輸送船など4隻が避難していました。

アメリカ軍の潜水艦は深い霧の中、500メートルほどの距離にまで接近し魚雷を発射しました。攻撃で3隻が沈没し船に乗り組んでいた30人が犠牲になりました。犠牲者の遺体は近くの集落に分散して運ばれ火葬されました。

しかし、薪を使って焼いたために時間がかかり、遺体は順番が来るまで海の岩場に安置されていたということです。

引き取り手のない遺骨

「船が攻撃された時、地元の人たちは山などに避難し集落が空になったと伝え聞いています」

そう語るのは地元の寺、康順寺の前住職、藤懿きよ麿さん(76歳)。

寺では、魚雷による攻撃で亡くなった人のうち最後まで身元が分からなかった2人の遺骨を今も供養しています。

(※藤懿きよ麿さんの「きよ」は、「ネ」に「去」)

藤懿きよ麿さん
「大それたことをしているつもりはなく、人間であれば誰でも持っている気持ちだと思います。船が沈められたことは若い世代など地元でも知らない人が多いと思いますが、悲惨な戦争が起きない世界をつくっていかなければならない」

悲劇は終戦後にも… 機雷で民間船が爆発・沈没

能登島の沖合

海での悲劇は終戦後も続きました。

昭和20年8月28日、七尾湾に浮かぶ能登島の沖合で民間の木造船「第二能登丸」が爆発・沈没し、乗組員を含む28人が犠牲になりました。湾内に敷設されていた「機雷」が船の沈没の原因とみられています。

地域の戦争の歴史を調べている七尾市の元小学校教諭、角三外弘さん(75歳)は、船を所有していた会社の事故報告書を入手し船の沈没について調査を続けてきました。

報告書によれば、第二能登丸は機雷によって「瞬時にして沈没」し、乗っていた人は「海上に投げ出され多数の死傷者を出した」とあります。犠牲者の中には生後わずか1か月の赤ちゃんもいたといいます。

約400個の機雷が投下された海

角三外弘さん
「七尾港は日本海側の物流拠点の一つだったため、機雷投下の対象になったのではないか」

機雷は海中などに投下され、接近してきた船に反応して爆発し船を沈める兵器です。太平洋戦争末期、アメリカ軍は飛行機を使って日本各地の港や主要航路に機雷を投下しました。日本の海上輸送の寸断を目的としていたことから“飢餓作戦”と呼ばれました。七尾湾にはおよそ400個が投下されたといいます。

石川 七尾 鵜浦地区

危険な機雷の海で沈没した第二能登丸。七尾市の鵜浦地区に建立された石碑には、第二能登丸に乗っていて亡くなった地区の住民13人の名前も刻まれています。

父親の最後の言葉

当時、鵜浦地区に住んでいた松本武夫さん(85歳)は第二能登丸に乗っていた生存者の1人です。松本さんは顔にできた肌のかぶれを治すため、父親に連れられて前日から近くの和倉温泉に湯治に出かけていました。

“出征した兄が帰ってくる”

うれしい知らせが入り、松本さんたちは帰路を急ごうと第二能登丸に乗り込んだのだといいます。船には仕事帰りの姉も乗っていました。途中、最初の寄港地で松本さんは自宅の最寄りの場所に着いたと勘違いして、船から降りようとしました。

『ここに、ねまっとれ』(座って待っていなさい)

これが松本さんが聞いた父親の最後の言葉になりました。松本さんは爆発の瞬間は記憶になく、気がついたら海の中にいたといいます。渦を巻く海で浮き沈みをくりかえしていた松本さんは救助の船に引き上げられましたが、父と姉は遺体で見つかりました。

松本武夫さん
「毎年お盆の時期が来ると必ず思い出す。子どもながらに自分の肌がかぶれることがなければ父親は船に乗ることもなく、何歳まで生きただろうかと…」

76年前の別れを思い、松本さんの目には涙が浮かんでいました。

“能登の里海の悲劇”を後世に

第二能登丸の沈没を調べてきた元小学校教諭の角三外弘さん。悲劇を風化させてはならないと、かつて勤務していた小学校で子どもたちと一緒に大きな紙芝居を制作しました。

『“このあたりは危ないなあ”

 機雷の海を進む船の機関長の言葉を乗客は聞いた』

沈没の瞬間の絵は「大きな水柱が上がった」という地元の人たちの目撃証言に基づいて描かれました。船が沈没して海に投げ出され破片につかまって助けを待つ人たちや、船を出して救助に当たる人々の様子も描かれています。

紙芝居は角三さんが退職後も手元に大切に保管していて、七尾市が開く「平和展」で毎年のように展示されているということです。

角三外弘さん
「第二能登丸の沈没で亡くなった28人の周りには、家族や友人など何倍もの人たちが悲しんだということを子どもたちには考えてほしい。慰霊碑やさまざまな記録などから自分たちの地域にも戦争の被害があったのだということを読み取って、伝えていってほしい」

取材後記

私(取材者)はことし43歳。亡くなった松本さんの父親とほぼ同じ年齢で、2人の子どもがいます。

父親を亡くしたとき9歳だった松本さんは、戦争が終わってから76年もの間「自分のせいで父親を死なせてしまった」との思いを抱いて生きてきました。

もし私が松本さんの父親と同じ立場だったとしたら、2人の子どもたちもこれからの長い人生を同じような気持ちを抱いて生きていくのだろうかと想像し、戦争がもたらす傷の深さを感じずにはいられませんでした。

志賀町の海で魚雷攻撃で亡くなり、今も遺骨の引き取り手がいない船の乗組員にも家族や友人がいたはずです。その人たちは、どのような思いで戦後を生きてきたのでしょうか。

私は取材を通してしか戦争を知りません。しかし戦争で家族を失った人だけでなく生きて帰ってきた元兵士も戦後の長い時間、心に大きな痛みを抱えて生きてきたという事実に取材のたびに接してきました。

これからも戦争が地域に及ぼした影響をテーマに取材を続け、角三さんが話す「伝えていく」ことに取り組んでいきます。